メッセージ - B年 年間 |
一年間の典礼暦の中で、待降節や四旬節また復活節といった、いわゆる「季節」と言われる時があり、その結果、残りの期間を年間と呼ぶという印象があります。しかし、注意して見ますと、年間も季節であるということがはっきりしています。これは、第二バチカン公会議の典礼刷新の結果です。従来の「年間」はTempus per annumとして位置付けられており、直訳するなら、「年間節」ということになります。この年間節は、救いの神秘全体を記念する季節、です。そして、その神秘の想起と祝いは、福音書の継続朗読によって、私たちの信仰生活を照らし励まし力づけるメッセージを含んでいます。
さて、B年の年間第4主日の朗読福音は、マルコ1,21-28が選ばれています。最初の弟子たちを召し出したイエスは(第三主日)、彼らと共にカファルナウムに着きます。そして、安息日に会堂で教え、人々はその教えに驚きます。それは、通常のラビがなすような聖書解釈ではなく、「権威ある者としてお教えになったから」です。何かの説明の言葉ではなく、「事を起こすことば」を語られるイエス。悪霊追放という救いの働きをそのことばによって実現されています。そして、「権威ある新しい教えだ」と人々は驚嘆します。この短いテキストの中に「驚く」という言葉がニ回使われています(原語は異なるが意味は同じ)。奇跡物語を、それを見た人々の「驚き」の動機で結ぶのはマルコ福音書の基本的な傾向であるといわれます。たびたび出る「驚く」を意味する動詞はそれぞれ異なっていますが、大きく言えば同じ意味と考えてよいでしょう。マルコ福音書の特徴の一つ、イエスは驚くべき存在である、というメッセージがすでにここに表れています。
悪霊という表現は時代錯誤のようにも響きますが、内容的には、現在にも現実に存在する事態です。人間が人間らしく生きることを妨げているさまざまな状況、それが悪霊という用語で表現されていると言えます。自己中心性、名誉欲、所有欲、などがそれにあたるでしょうか。そのような状況からの解放をイエスは、今・ここで実現されます。今日の感謝の祭儀で、私たちの提供される二つの食卓、神のことばの食卓とキリストのパンの食卓にあずかることで、この救いを体験することができますように、そして、この体験を「典礼の<後の>典礼」(東方典礼の用語)、つまり、日常生活に広げていくことができますように。
メッセージ - B年 年間 |
(マコ1,14-20)
「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」マコ 1,14-15
神は創造してくださった世界を人間の支配にゆだねました。(創1,28)支配の本来の意味とは、漢字が示唆している通り「支えると配る」、つまり自分の支配下にあるものを自分の利益のために利用するということではなく、その善のために力を尽くして奉仕するということなのです。神が人間から求めておられる支配とは、創造主と協力しながら、この世界を完成へと導くということです。世界を人間の支配にゆだねるというのは、創造の業にあずかるように招くということです。
残念ながら、人間は神の望みに逆らって、ゆだねられた被造物を自分の欲望を満たすために利用するようになりました。結果的に、世界は悪化して、いろいろな不正や病気や災いがこの世に入り込み、人間が神との親しい交わりと自由をはじめ、いろいろなすばらしい賜物を失いました。世界は、神が求めているような所よりも、悪霊が求めているような所になり、神が支配している所よりも、悪霊が支配している所になったということさえ言えるのです。
イエス・キリストはこのような世界に生まれてきて、その現実をよく知っていましたが、「神の国が近づいた」と宣言します。確かに、神は人間に創造の業にあずかることを求めていますが、この世界の完成、つまり、神の国の実現は人間の協力に頼らずに、神ご自身の業なのです。人間が神の招きを無視している故に世界は間違った方向に向かっても、神の国は遠ざかっているのではなく、それに近づいているということが福音、良いお知らせなのです。
近づいている神の国に入るために、私たちは悔い改める必要があります。それは、イエスに従うことによって自分の考え方や価値観や生き方をイエスが教えてくださった考え方や価値観や生き方に
変えるということなのです。
メッセージ - B年 年間 |
テーマ:
第一朗読: サムエル上3,3-10.19
第二朗読: 1コリ6,13-15.17-20
福音朗読: ヨハネ1,35-42
全世界を創造された唯一の神はすべての人々を愛する。この唯一の神はすべての人々からある人を選び、特別な教育をする。その中の一人に第一朗読のサムエルがいる。サムエルとは唯一の神の御旨通りにユダヤ人の十二部族のために最初の王が選んだ予言者である。そうなるために神によって選ばれたのである。しかし、将来尊敬される予言者になるために、子供であるサムエルはそれに相応しい教育を受けなければならなかった。サムエルが子供のとき、唯一の神は彼を呼ばれたが唯一の神をまだ知らないサムエルは答えなかった。彼は自分の先生、ヘリという人の声しか知らなかったからである。ヘリはこの出来事をよく理解できて、サムエルに二つの大切なことを教えた。まず、人間は唯一の神の僕であるということ。そして、唯一の神の僕として、サムエルは唯一の神の声を聞かなければならないということである。この二つのことを学んだ時からサムエルの道が始まった。
この何百年も後に洗礼者ヨハネは自分の弟子たちに真実の道を教えた。その道はイエスであった。洗礼者ヨハネは自分自身をよく理解して、メシアではないという告白をはっきりした(ヨハネ1,19-27)。そして、エルサレム神殿の人々の前だけではなく自分の弟子の前でも、イエスがメシアであるという告白をした。そのおかげで、二人の弟子たちは救いの道を見つけた。洗礼者ヨハネの教えがなければ、この二人の弟子たちは自分の力でイエスを認識できただろうか(ヨハネ1、37)。洗礼者ヨハネの指摘によってこの二人の弟子たちはメシアを見つけることができた。この二人はイエスについていき、イエスがメシアであるということが理解できるように十分学んだ(ヨハネ1、38-39)。イエスのことを分かるようになった一人の弟子(アンドレア)は自分の兄弟(ペトロ)にそれを伝えた。後に、ペトロはアンドレア以上に重要な人物になった。けれどもアンドレアがいなければペトロはイエスに出会わなかっただろう。アンドレアの導きによってペトロはイエスを見つけることができた。
その約二十年後にパウロはコリントに住んでいる異邦人に福音を述べ伝えて、コリント教会の設立者になった。キリスト者になった異邦人たちはパウロの誇りとなったが、簡単にイエスの道を行くことはできなかった。異邦人らしく人間についての教えを学び、キリスト者としてそのまま続けていることがよいことであると思われていた。真実の道をまだ知らなかった新たなキリスト者たちはパウロから人間の尊厳についての教えを学んだ。パウロは「体は淫行のためにあるのではなく主のためであり、主は体のためである」と言った。パウロによれば、人間の体は肉ではなく、人間の体は聖霊が宿る聖所である。堅振を受けた時からキリスト者は聖霊の聖所であるので、聖霊の力の内にイエスの倫理的な教えに従わなければならない。
メッセージ - A年 祭祝日 |
洗礼者ヨハネの洗礼は、水による洗礼であり、神から来られる救い主に出会うための回心の業でした。洗礼者ヨハネは、自分の後に来られる方は、「聖霊で洗礼をお授けになる。」という証しをしました。キリストは、ヨハネから洗礼を受けた時、これに伴う神様の働きを三つ示してくださいました。
① 「水の中から上がると直ぐ天が裂け(た。)」
旧約時代にユダヤ人たちは、罪人の我々のために多くの「天」によって天国が閉ざされ、人間がそこに昇ることもできず、神からの恵みと愛も充分に頂けないという世界観を持っていました。しかし、キリストが洗礼を受けた時、天が裂かれたと福音は私たちに教えています。人には神の恵みが豊かに注がれ、人間はキリストによる洗礼を受けると、キリストと共に天国に入ることができることを教えています。神の子の御降誕によって、天国が地に降ったという意味もあります。さらに、この出来事の完成は、キリストの十字架の死とご復活による過越の神秘にも見られます。キリストが十字架上で息を引き取られた時、神殿の中で神現存の至聖所と一般の人が集まる場を分けていた「垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、」(マコ15,38)神と人とが共に生きることができることを示しています。
② 聖霊が鳩のようにキリストの上に降って来た。
聖霊を象徴する鳩は、無罪、和解、平和を示します。世界の創造物語の中で、「霊は水の面を動いていた。」と記されているので、キリスト自身は、新しい創造、新しい神の民の始まりであることを現しています。彼は、聖霊の注ぎによって預言されていた「油注がれて者」、即ち、救い主であることを示しします。
③ 「あなたは、わたしの愛する子、わたしの心に適うも者」という声天 から聞こえた。
これは、御父が御子の間にある愛と親子の親密関係を現します。イエス様が神の子としてすべてを支配する王権を持ち、御父の御教えと御業を洗礼の時から公生活の中で実現し、すべてを御父に導き、彼に委ねられたすべての人のために命を献げる方であることを教える。
洗礼の秘跡は主の洗礼の出来事を私たちに実現することです。私たちは、洗礼によってすべての罪から解放されて、キリストの過越の神秘に与り、神の命を頂いた新しい人になります。私たちの洗礼の時にも、御父が働きます。私たちのために天国が開かれます。そして聖霊が降り、私たちを聖別し、祝福で満たし、永遠の命を与え、キリストの証し人とします。御父は、私たちの一人ひとりに、「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」であると呼びかけます。私たちも、この偉大な恵みに対して、心を閉ざすことなく、心の耳を澄まして、神の子どもとしての生き方を送る勇気が与えられるように祈りましょう。
メッセージ - B年 降誕節 |
民数6:22-27
ガラ4:4-7
ルカ2:16-21
第一朗読に、神はモーセに、イスラエルの民への祝福の言葉をアロンとその子らに伝えるようにと命じました。司祭の家系であるアロンとその子孫は主ご自身の言葉でイスラエルを祝福するのです。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように・・・主があなたに平安を賜るように」と。長く厳しい荒野での旅の中での様々な困難に直面する時に、イスラエルはこの言葉を思い出し、励まされたことでしょう。一人ぽちで、不安な時に、誰もが聞きたい励ましと希望に満ちた言葉です。
長い歴史を経て、イスラエルの民にとってその希望の光が消えそうになった時に、ガリラヤのナザレで天使ガブリエルはその言葉をマリアに告げました。「恵まれた方、主はあなたと共におられます。恐れることはない。あなたは神から恵みを頂いた」と。置かれている状況からすれば、たとえ主の言葉であってもマリアはそれを素直に受け入れることは出来ません。しかし、戸惑いながらも、マリアは「私は主のはしためです。お言葉どおりになりますように」と答えました。その答えによって、イスラエルに新たな希望の光が灯されました。
恵みを受けるためには、全てのことを自分が納得する必要はないです。馬小屋で産まれた我が子を飼い葉桶に寝かせた時のマリア様の胸の中には、いろいろな疑問が重なっていることでしょう。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。神は何を望んでいるのでしょう。しかし、十字架の傍らでそれらの疑問が解けるときまで、マリアはその全てを静かに心の中に思い巡らします。
恵みは理解するものではなく、時間の中で生きるものです。恵みに気づくために一つ一つの出来事を静かに思い巡らすことが必要です。