メッセージ - A年 復活節

 

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」ヨハ 14:1

おそらく、私たちは自分の心の奥深いところを正直に見つめることができるならば、そこにはいろいろな恐れ、不安、悩み、わずらいなどのようなものを見出すのではないかと思います。その内、私たちが過去に行った悪や現在の私たちの悪いところがもたらす恐れや悩みがあり、また、未来に体験するだろうと思われる損害、病気や他の苦しみに対する心配、また、必ず訪れてくる死に対する不安や他のわずらいもあるはずです。

そのような恐れ、不安、悩みやわずらいは、大きな苦しみですので、それを無くしたいと望むこと、また、実際にそれを無くすためにいろいろな試みをするのは当然です。けれども、一時的に成功したとしても、この恐れ、不安、悩み、わずらいは戻ってくるだけではなく、大きくなることもあるのではないでしょうか。

そんな現実に生きている私たちのところにイエス・キリストが来て、「心を騒がせるな」と呼びかけて、私たちをこのような苦しみから解放することを約束してくださいます。そして、この約束を実現するために、イエスは私たちにご自分の愛を与えてくださるのです。

イエスは、誰よりも私たちが過去に行った悪や現在の私たちの悪いところ、それから、未来に行う悪を知っておられます。それにも関わらず、イエスは誰よりも私たちを強く愛しています。私たちのためにご自分の命を与えるほど愛しておられるのです。イエスの復活を思い出すと、イエスの愛は、私たちの罪、私たちの中にある悪よりも強いものであり、死よりも強いものであるということも分かります。ですから、イエスの愛を受け入れ、それを自分の最も大切な宝物にするならば、私たちは、あらゆる恐れ、不安、悩み、わずらいの支配から解放されます。そして、イエスご自身と同じように、自分の心の最も深い望みに従って愛に生きることができるようになるのです。

 
主日の朗読聖書 - A年 復活節

ヨハネ10・1-10

〔そのとき、イエスは言われた。〕1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 2門から入る者が羊飼いである。 3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

 
メッセージ - A年 復活節

 

第一朗読:使徒2,14.36-41

五旬際の時、聖霊に満たされた十二人の弟子たちは世界の様々なところから祭りのためエルサレムに集まったユダヤ人にイエスについての福音を述べ伝え始めた(使徒2、1-2)。

ペトロは弟子の頭として最初の話を始めた(使徒2,14-35)。第一の朗読の言葉はこの話がもたらした結果を示す。神は,十字架につけて殺し、三日目に復活させたイエスを主とし、またメシアとなさったという福音を受け入れることができたユダヤ人たちは、イエスの弟子になるために必要なことは何かとペトロに尋ねた(使徒2、37)。彼は答えて言った。神の約束は神に選ばれたすべての人々のために与えられた恵みである(使徒2,39)。「神の約束」というのは聖霊の力のことである(使徒2、17-21)。聖霊の力を受けるためにまず必要なことは一つ、回心(自分の考え方や行いを変えること)することである(使徒2、38)。そして、犯した罪が許されるためには、イエスの名によって洗礼を受けることが必要である(使徒2,38)。この二つのことができた人々は、必ず聖霊の力を受ける(使徒2、38)。この日、この道を選んだ人々は約三千人であった。

第二朗読:一ペトロ2,20-25

神は,十字架につけて殺し、三日目に復活させたイエスを主とし、またメシアとなさったという福音を認めることができた人々の中には、ユダヤ人だけではなく異邦人もいた。ユダヤ人は「イエスはメシアである」という教えに注意を向けたが、異邦人は「イエスが主である」という教えに注目した。一世紀には、キリスト者になった異邦人は奴隷の場合が多かった。ある奴隷(特に厳しい主人がある奴隷の場合)は「主はイエスしかいない」という気持ちの内に自分の主人に対して反抗した。そのような考え方や行いは、この表現に対するキリスト教の理解ではなかった。また、このような行いがあるから、社会はキリスト教の教えを認めたがらないのである。それは原初キリスト教の将来にとってあまり良いことではなかった。だから、ペトロは奴隷として暮らしているキリスト者たちに「主人に従いなさい」という教えを説いた(一ペトロ2、18)。もし主人から不当な扱いを受けたら、イエスのように忍耐の内にすべてを受けて(使徒2、21-22)裁きは神に任せることである(一ペトロ2、23)。

福音朗読:ヨハネ10,1-10

この譬えは分かりにくいだろう。イエスの弟子たちでさえ、この譬えの意味が理解できなかった(ヨハネ10、6)。「イエスは門である」というのはイエスが天国の門であるということである(ヨハネ10、9)。この門を選んだ人にだけ永遠の命が与えられる(ヨハネ10、10)。他の門は不正な門であり、無駄な門である。

イエスの話によれば、福音を述べ伝える牧師たちはイエスに従わなければならない。だから、イエスの教えに従わない、イエスの業を行わない牧師はイエスの牧師ではない(ヨハネ10、1)。そのような牧師はキリスト者として認められないのである(ヨハネ10、5)。

 
主日の朗読聖書 - A年 復活節

ルカ24・13-35

 

13この日、〔すなわち週の初めの日、〕 二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 
メッセージ - A年 復活節

エマオへ臨んでいた二人の弟子の信仰は、私たちの信仰の持ち方とたくさんの共通点があると思います。二人は、キリストが救い主であると信じてイエス様の弟子となり、聖書から神の言葉を知るようになり、キリストから神の国について、また、御自身の死と復活について教えを受けた弟子たちでした。キリストが命を献げる程に私たちを愛してくださいました。十字架上で息を引き取られたことを、二人は歴史的な事実として受け止めたが、キリストの復活を理解できずに、比喩的な意味を持つ言葉として考えたことでしょう。周の初めの日にキリストの墓が空だったこと、キリストがご復活なさったと婦人たちに伝える天使たちの出来事を現実だと思わず、彼らにとってキリストの死を悲しむ涙と救い主を失った絶望は現実でした。

洗礼を受けた私たちは、福音の弟子と同じような救い主キリストに心の中で出会う喜びの事実があったと思います。しかし、世の中にある愛の不足、争いなどの悪は、私たちの心からキリストを奪うことがあります。キリストは罪と死に打ち勝ったことは、非現実な話しに聞こえます。世の悪の方が強いからと思いこんで信仰を失ったりします。しかし、復活したキリストは、主の道から離れて行く私たちをあきらめません。主の道を離れてエマオへ歩んだ二人の弟子の道にキリストが現れたように、私たちの道にも現れ、共に歩きだしたりします。肝心なポイントは二つです。

一つは、いつ、我らは自分の人生の道の中で、復活したキリスト自身が歩んでいることに気づくかどうかということです。

もう一つは、キリストに気付いたら、我々がキリストの示された道に立ち帰る決心するかどうかということです。

エマオの道と同じように私たちは信仰の道を歩みますが、キリストは人知を遥かに超えた存在ですから、気付くのは難しいです。それにもかかわらず、キリストはエマオの弟子のように私たちを助け、励まし、教え、導き、諭すのです。二人はキリストの言葉を信じたが、キリスト自身に気付きませんでした。でも、その方に憧れて自分の場所に一緒に泊るように招いたのです。そこで、キリストは自分を表現するために最後の晩餐を再現しました。すなわち、「食事の席に着き」、「パンを取り」、「賛美の祈りを唱え」、「パンを裂いて」、弟子たちに「お渡しになった」ということを見た二人の弟子はイエス様だと分かりました。キリストを見出すために、イエス様の顔や姿は、意味がないのでキリストは裂くパンの内にご自分の存在を秘められました。

御ミサの時に司祭の手を通して再現された最後の晩餐の時に、我らの一人ひとり、キリストの現存を見出しているでしょうか。復活したキリストに出会った二人は、エルサレムに戻って、キリストの復活について証しし、キリストの示した救いの道を歩み出したのです。復活したキリストの体を頂く私たちは、キリストについて証しし、人と共に歩み、人と「パン」を分かち合ってキリストについて証しするでしょうか。キリストと一致して、罪を捨てキリストの復活の喜びに人生を変えた信者たちはキリストの復活の現実を証しています。私たちもその一人になったでしょうか。