メッセージ - A年 年間

 

第一朗読:列王記(上)19,9a 11-13

第二朗読:ローマ9、1-5

福音朗読:マタイ14,22-33

 

第一朗読では、主が通り過ぎて行かれるとき、激しい風や地震や火の中にではなく、ささやく声の中に神の語りかけを聴くことができる、と記されている。旧約聖書における神顕現のフレーズである「通り過ぎる」ことは、新約の福音書にも顔を出している(本日のマタイの平行箇所であるマルコ6,48)が、これも旧約と新約の一貫性(啓示憲章16、朗読聖書の緒言5,106他)を示す箇所ということができる。

 

第二朗読では、パウロの同胞の救いを思う熱心が「神から見捨てられたものとなってもよい」という言葉で表現されている。パウロ神学では、神はイスラエルから始めて全世界へ救いもたらす存在ととらえられている。

 

福音書では、パンの奇跡の後、弟子たちだけで湖を渡る弟子たちの恐怖と救いが、奇跡物語の枠内で語られている。舟は教会共同体のシンボルであり、海(湖)は、神に逆らうこの世の力のシンボルである。この種の奇跡物語は、神顕現のものであり、癒しの奇跡とは異なって、直接には弟子たちのための語りとなっているといわれる。つまり、弟子たちを中心とする教会は、キリストが共にいるときに本当の平和があり、救いがあることの表現となっている、おじ恐れる弟子たちに「安心せよ、わたしである(エゴ・エイミ)、恐れるな」

とこ声をかけるイエス。ここにも旧約の神顕現のテクニカルタームが含まれている。まさに、出エジプト、紅海渡航などで救いに介入された同じ神が、キリスト・イエスの中で働いておられる、という信仰がこの記事の基本にある。その神は、今、教会の典礼祭儀の中で、キリストによって、聖霊のうちに、現存される同じ神である。

マタイ福音書の基本メッセージとされる「神、われらと共に!」(1,23:18,20:28、20)のテーマがここ、イエスの海上歩行、嵐の鎮めの出来事の中にも見ることができる。

 

現代の教会、キリスト者、そして神の民を導く奉仕者たちも、いろいろな怖れや批判や自らの弱さのために、福音本来の力と喜びを生きることができなくなっているときに、主キリストご自身を見つめることによって生きていることができること。このことを今日の福音のメッセージは含んでいると思われる[市瀬英昭]

 
メッセージ - A年 年間

 

「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」マタ 13:46

 

最高の幸福のためにどうしても必要だと思われるものは、そう思う人にとって最も価値の高い宝物になります。人によって、それは、物質的な富や健康であったり、仕事や娯楽であったり、学歴、社会的な位置や権力であったり、または、他人に認められることや多くの友人がいることであったりします。

人間の最高の幸福のために何よりも必要なのは、神の国、つまり神との愛の交わりであるということを宝と真珠についてのたとえによって、イエスが教えています。

たとえに出る人と商人が見つけた宝や真珠を手に入れるために、自分の持ち物を売ったように、神の国に入るために、言い換えれば、神との愛の交わりに生きるために、今まで自分の宝として思われたものを手放し、そのものの束縛から自由になる必要があるのです。

今までの生き方への執着が強ければ強いほど、その生活の中心になっていたもの、頼りにして来た物を手放すのは、難しいです。それができるために、聖パウロと同じように、キリストの愛の素晴らしさと「万事が益となるように共に働く」(ロマ 8:28)神の力の偉大さを知るようになることによって、今まで自分の宝になっていたものを現実的に見る必要があります。つまり、このものは、今まで非常に役に立っても、思ったほど価値がないこと、思ったほど力がないこと、それなりに良い物であっても、ないよりもあった方がいいようなものであっても、自分の幸福のためにどうしても必要ではないこと、場合によって真の幸福を妨げるものであることを認める必要があるのです。

 
メッセージ - A年 年間

 

テーマ:「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」

本日の福音の中で、イエス様は弟子たちに、御自身が人々から排斥され、苦しみを受けて殺され、3日目に復活することを予告します。いつも、キリストと共に歩んでいた十二使徒は、それを聞いて、危険を感じました。キリストがこれから進もうとされる死の門を通じる道を自分たちはついていけないと思っていたので、使徒ペトロはイエス様に「そんなことがあってはなりません」と注意します。そのために、イエス様はペトロをサタンと名付け、神様の思いを邪魔するものであると言い、その心を持つなら、御自分からさがるように命じました。

ところで、私たちは何故、教会に来るかを意識の確認をする必要があります。教会に来る理由は様々でしょう。それは、キリスト者だから御ミサに行かないと罪悪感があり、天国に行けない恐れの理由、信者の仲間に会える理由、荘厳な儀式に与って綺麗な聖歌を歌いたい理由、説教が聴きたい理由などです。私たちの信じる心の奥には、秘跡の内にキリストと一つになる喜びを望み、キリストの弟子になりたいのです。福音の十二使徒は、私たちの考え方とそんな変わっていなくて、キリストに従う意味を理解しなかったです。

イエス様は、この時点で御自分の弟子となる条件を皆に言い渡しました。その条件は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってキリストに従うということです。なぜなら、自分の命を救いたい者はそれを失い、キリストのために命を失う者はそれを救うからです。ここで、私たちは、自分の十字架とは、何であるかと断定し、十字架を担うキリストに従うということかを見出す必要があります。これをここで以下の三つのポイントでまとめましょう。

1.寛大な心を持つこと。

キリストは財産を持ちませんでした。命を捨てる程の最大な愛をもって十字架上で自分自身を神様にいけにえとして献げ、私たちに御体を御聖体の秘跡の中で与えます。私たちも、物よりも、自分の人生と愛の心を無償に奉げ尽くすことは、自分の十字架を担ってキリストに従うことに繋がります。

2.有意義に時間を過ごすこと。

キリストは、知識人、社会の有力者や金持と過ごすことなく、社会の中で見捨てられた人、貧しい人、病人や罪人と一緒に過ごしました。いわゆる、社会において御自分の得にならない人と過ごしました。イエス様は、彼らのために時間を惜しまずと共にいて、正義のために戦うことなく愛をもって悪に打ち勝っていたのです。私たちも、働いても、休んでも、勉強しても、食べても、自分の時間を必要な人のために無償に捧げるなら、自分の十字架を担ってキリストに従うことに繋がります。

3.誠実さと熱意を持つこと

キリストは、祈ることに熱心でした。40日間荒れ野で断食して祈り、大切な決断の前に夜を明かして祈り、オリーブの園で血の汗を流すほど熱心に祈られました。神の掟から一点一画亡くならないように、御父の御旨を誠実な心を持って従順に従い、罪と悪を捨てて徹底的な回心を、赦しと聖性によって完全な道を教えました。愛するという最大な掟を十字架の死に至るまで実践してこられました。私たちも、キリストのような熱心に祈って、誠実に御心を行うことによって自分の十字架を背負うってキリストに従う弟子となることでしょう。

 
メッセージ - A年 年間

「刈り入れの時まで両方とも育つままにしておきなさい。」

 

 

イエス様は「毒麦」の例えを御自分で解釈します。畑は世界、良い種を蒔く人はキリスト、毒麦を蒔いた敵は悪魔、借り入れは世の終わりであると言います。

キリストはこの世に来て、み言葉の種を、病人を癒したり、死者を甦らせたり、行った多くの奇跡の種を、また、ご自分の体を十字架上で献げて血を流すほど大きな愛の種を、御復活なさって永遠の命の種を世にいる私たちの心に蒔かれました。この救いの種を、私たちは洗礼を初め、他の秘跡とキリストから頂くすべての恵みの内に頂くのです。では、何故世の中に、何故教会の中に、何故自分の内に「毒麦」見たいな悪が育てられ、良いことの成長をふさぐのでしょうか。ある人たちは、この世の悪について神様に苦情を言いますが、イエス様は、「悪魔の仕業だ」と言われます。

人間は、世の中にある悪を取り除く意味で、「麦」の間から「毒麦」を抜き集めて焼きたいです。しかし、これによって悪は益々広がることがあります。イエス様は、麦と毒麦が絡んでいるように、世の中でも人の心の中でも善と悪が混ぜられていることが多いからです。人間は悪の部分に気を奪われてそれを破壊したい時に、善をおろそかにする恐れがあります。その結果として、戦争を起こしたり、互いに争ったり、自分までを憎むようになって自分自身の心に傷つけることも多いのです。ところで、キリストは、悪を無視して「良い麦」を御心に留めて、人の良い心に傷つけることがないように保護を促しています。

「毒麦」の例えを持って、キリストは私たちに次のような指図を与えていると思います。

1.      悪のために場がない程に自分の心を神と神の恵みで満たし、悪い者が心に「毒麦」を蒔かないように気をつけること。

2.      世の中で悪は善に見せかけて大きくなる恐れがあるから、悪の「芽」が大きくならない内に、祈りの中で善悪を識別して、善をもって悪に打ち勝つこと。

3.      悪人に手を向けることも、人を裁くこともなく、「毒麦」を心の中で育てた人の裁きを神様に任せ、むしろ、神様から頂いた恵み(キリストが蒔かれた良い麦)を大切に育み、良い実を結ぶように最善を尽くすこと。

 
メッセージ - A年 祭祝日

 

本日の第一朗読では、『使徒たちの宣教』12,1-11が読まれます。ヤコブの殉教が短く記された後、ペトロの牢獄からの奇跡的な解放が詳細に語られますが、その解放が「主の手による」ものであることを強調するものとなっています。

第二朗読は、2テモテ4,6-8,17-18です。パウロが、自分のすべての働きが「いけにえ」としてささげられていると書き、福音をすべての民族へ述べ伝えようとしたのは「主がわたしのそばにいて、力づけてくださ」ったからであると明記しています。こうして、第一朗読も第二朗読も、復活の主の力が強調される結果となっています。

「ことばの典礼」の頂点である「福音朗読」には、マタイ16,13-19が選ばれています。ここでも、クライマックとなるペトロの信仰告白「あなたはメシア、生ける神の子です」という宣言が「天の父による示し」によるものであるとされています。つまり、人間的な常識や認識ではなく、恵みとしての啓示である、ということです。そして、その様な信仰告白の上に、教会(神の民)が集められます。さらに、天の国の鍵がペトロに授けられ、地上でつなぐこと、解くことが天上でもそうされる、と宣言されます。そして、これは、ヨハネ福音書の復活の主が「罪をゆする」恵みを弟子たちに付与した箇所を連想させます。それは、人間のわざではなく、まさに「神のわざ」を担う奉仕職です。

さて、ペトロのパウロは対称的に描かれることもありあますが、また共通点もあります。一つは、両者とも「一度打ち砕かれた後、新しく立ち上がらせられた」

という点です。ペトロの否み(マルコ14,66-72他)とパウロの回心(使徒9、1-19他)の箇所だけを上げておきましょう。二つ目は、両者ともイエス・キリストに対する熱い信仰によって生きている、という点です。すべての信者へ向けて書かれた『司祭職-信徒にとって、聖職者にとって-』(R.カンタラメッサ)には「イエスというお方との信頼と友情に満ちた人格的な関係こそが、すべての司祭職の核心となります」と書かれています。まさに、この関係こそが私たちにとっての「根」です。

本日の「叙唱」では、この共通の根から「異なる使命を受けた二人は、キリストのもとに人々を一つに集め、信仰のあかしのためにともにいのちをささげました」と朗誦されます。集会祈願、奉納祈願そして拝領祈願でも、それぞれ、信仰を受け継ぎ真理を世界にあかしすることができるように、キリストの奉献に与ることができるように、一つとなって神の愛に生きることができるように、と祈られます。私たちの信仰は、受け、生き、渡していくダイナミックな恵みです。

最後に、異なるカリスマを与えられた前教皇ベネディク16世と現教皇フランシスコの合作ともいえる『回勅 信仰の光』を熟読されることを希望します。