聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム |
序. キリスト教の信仰宣言は、至聖なる三位一体(父と子と聖霊) の神様を信じるという信仰告白です。「使徒信条」の第1箇条は、「天地の創造主、全能の父である神を信じます。」という内容を持っています。「ニケア・コンスタンチノポール信条」は、「わたしは信じます。唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。」となっています。前回は、神様は御父と御子と聖霊であっても唯一の神であるという信仰内容についての講話でした。この度、三位一体の第一ペルソナ(位格)である御父を信じることについての講話となります。
聖書が啓示する神様は、造り主であるゆえに「父」であるという特徴があります。旧約聖書の「モーセの歌」の中で神様を「父」(申命記32章6節)と呼びます。しかし、ユダヤ教は、どんな被造物も神ではなく、また神としてはならないから、人間に過ぎないイスラエルも、被造物の次元を超えて神様の子どもであるかのように、神様を「父」と呼ぶこととは、冒瀆として考え、許されていませんでした。ところで、新約時代に、イエス・キリストの教えに従って、キリスト信者は、様々な意味で神様が「父」であることを理解し、「父である神を信じます」と宣言します。
1.「創造主なる全能の父である神」
創世記は、神様はすべてのものに先立って、すべての存在の源であり、すべての存在と命は神様によってあることを、世界創造物語を用いて伝えます。以下に人間創造についての箇所を引用します。
神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、とされた。神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。(創世記1章24節~31節)
1)全能の創造主である父
以上の聖書の箇所は、第一創造物語の六日目の創造の業を一部紹介しています。この創造物語の全体(創世記1章3節~31節)は、神様が一日目に光を、二日目に大空と水を、三日目に海と陸、また地に生える草木を、四日目に太陽、月と星を、五日目に鳥と魚をお造りになったと書かれています。各創造の御業を行われるにあたって、創世記は、「神は言われた」、「そのようになった」、「神はこれを見て良しとされた」という言葉が繰り返されています。これらの言葉は、神様が宇宙万物を無からお造りになった全能者であることを示し、神無しに造られたものは、何一つないということを教えます。すべてのものは、神様の愛の溢れるところから創造され、神様の内に存在し、神様はすべての存在を支え、親のような者(父)であることを示します。神様は、「あれ」と言われたものの中で、足りなかったものは何一つなく、失敗したものも何一つありません。すべては「極めて良かった」のです。したがって、教会は、神様が天地万物の主、また歴史の主として全能者であるとことを信じ、そして、目に見える宇宙万物と目に見えない霊的な世界の造り主として、かつ、その中のすべての命の源として、「父」であることを信仰告白します。
2)人間が体験する全能の父
「全能」は神様の本質であって神秘でもあります。人間は、無限の愛と限りがない憐みを体験する時に、御父は「全能」であると信じるようになります。信じようとしない者の目には、御父の全能が無力なものとして映ります。しかし、神様は、その御子の十字架の死によって無限の愛を現し、罪と死に対する決定的な勝利をおさめた全能者であることを明らかにしました。自分の無力と貧しさを知る謙遜な人、信頼の内に神様に自分を委ねる人は、神様の限りない偉大さを体験することができます。
神様の御告げに対して聖母マリアは、「どうして、そのようなことはありえましょうか。」(ルカ1章34節)と言って、ありのままに自分の無力を告白しました。その時に天使ガブリエルが、「神にできないことは何一つない。」(ルカ1章37節)と伝え、これを信じて受け入れたマリア様は、神の子を宿し、神様の全能を誉めたたえて歌いました。「わたしの魂は主を崇め、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低いこのはしためにも、目を止めてくださったからです。今からの後、いつの世の人も、わたしを幸いな者というでしょう...」(ルカ1章47節~48節)と。
御父は御自分の「全能」を見せびらかすことも、力を持って私たちに圧迫を与えられることもありません。神様の「全能」は、謙遜な人や小さなものの中で現れ、愛の内に御自身を与え尽くすことに本質があります。例えば、天地万物の造り主である神様が、被造物である小さな人間の幼子となり、馬小屋での最も貧しい誕生を迎えたことに神様の偉大さがあります。それは、全能者しかできない人の思いを遥かに超える偉大な業です。羊飼いたちに御降誕を知らせた天使たちは、この偉大さを「栄光の賛歌」をもって誉めたたえます。「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ22章14節)と。私たちも天使たちに従って御父の「全能」を生涯、賛美することが一番尊い大切な務めであると教会は教えています。
2.「御子イエス・キリストの父である神」
イエス・キリストは、神様の本性を持つ御方として、神様を「父」と呼ばれました。以下に引用する聖書箇所は、キリストと御父の関係を描きます。
フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハネ14章9節~11節)
上記の聖書の箇所によりますと、キリストは、人間の次元を超える者として神様を御自分の父と呼び、御自身が御父の内におられるということを弟子たちに教えてくださいました。また、別の箇所では、キリストは、「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(ヨハネ8章58節)と言われ、人間としてベツレヘムで御降誕なさる前に、即ち、永遠の昔に神様から御生れになったことを促しています。そして、キリストがヨルダン川で洗礼を受ける時、また、タボル山で御変容なさった時に、御父御自身がイエス・キリストについて証ししました。「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3章17節・17章5節)と。同じ意味で、神様は御子キリストの真の父であることを私たちに現してくださいました。
イエス様は、真の神の子として祈りの時に、「天地の主である父よ、あなたを誉めたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」(マタイ11章25-27節)と祈りました。したがって、教会は、ニケア・コンスタンチノポール信条の中で、イエス・キリストは造られえることなく、永遠の昔から(初めから)御父からお生まれなったので、神様はその神性の次元でイエス・キリストの父であると宣言されています。
3.「恵みによる私たちの父である神」
人となった神の子イエス・キリストは、神様の子どもとして相応しくない私たちに勇気を与えて、相応しい者になるために、大胆に祈りの内に神様を『父』と呼ぶように薦められました。以下に引用する福音箇所にしたがって、教会は「主の祈り」を唱えて、神様を「父よ」と呼ぶようになりました。
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」(ルカ11章1節~4節)
1)神様を「父」と呼ぶように教えるキリスト
人間は、神様から生まれたのではなく、本性によって神様の被造物に過ぎず、また罪深さのためにも、自分のことを「神の子ども」と呼ぶ資格はありません。真の神の子、イエス・キリストの恵みによって、私たちは上記しました聖書に書かれている「主の祈り」の文を唱える時に、神様を「父」と呼ぶことができるようになりました。山上の説教(マタイ5章~7章)の中で、キリストは、私たちに神様のことを自分の「父」として考え、愛するように薦めます。または、神様こそ、私たちの「父」ですから、この世の中で誰をも父と呼んではいけないという言葉をつかって、「あなたがたの父は天の父御ひとりだけだ。」(マタイ23章9節)と言われたのです。
祈りも、善行(施し)も、断食も、人目につかないようにと注意してくださいます。「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6章6節)と繰り返して言うのです。神様は親(父)のように、空の鳥を養い、咲く百合の美しさを極めるから、これ以上に、人間を愛することを強調します。神様を父と呼ぶために、わたしたちは、神様の子どものように生きる必要があります。キリストは、「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5章44節~45節)と言われて、不動で無条件の愛によって、天の父に似る者となるように教えます。そして、キリストは神の子どもと呼ばれるに相応しい生き方を送るように、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものになりなさい。」(マタイ5章48節)とお薦めになったのです。
人間がキリストのように「神の子」になることではありません。復活したキリストは、マグダラのマリアに次の言葉を伝えました。「わたしの父であり、あなたたちの父である方、また、わたしの神であり、あなたたちの神である方のところへわたしは上る。」(ヨハネ20章17節)と。ここに、キリストは、「わたしたちの父」とは言わずに、「わたしの父」と「あなたたちの父」を意図的に区別して表現します。御父から御生れになった御子は、神性の次元で「親子」としての完全な交わりです。ところで、被造物である人間は、御父の憐れみと愛の惠みによって三位一体の交わりに加えることができます。使徒パウロのローマの信徒への手紙の中で記されているとおり、洗礼を受けた信者は、「神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と叫ぶのです。」(ローマの信徒への手紙8章15節)こうして、この地上で人は信仰の祈りの内に神様と、「親子」のような親密な関係を作ることができます。
2)神様が人間の父となる御摂理
神様は被造物である人間を御自分の子にしようと、初めから御計画なさったのです。創世記が描いている「神と人」の関係は、「親子」らしいの関係を促しています。神様は良い父として啓示されていますが、人間の方は、神の子どもらしくない態度を示していると聖書に書いてあります。
即ち、第一創造物語(創世記1章)は、子が親に似てすべてを無償に頂くように、神様は、愛を込めて人間の存在を望み、御自分に象り似せてお造りになり、祝福してすべてを無償にお与えになりました。第二創造物語(創世記2章)は、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)と記されています。
人間は、肉体と霊魂からなりたっている一つの存在者であり、その独自の本性の中に霊的世界と物質的世界とが一つになっています。神様から命の息を受けた人間は不滅の霊魂を持ちます。人間の命を指す霊魂は、生んだ親から頂く命の遺産ではなく、直接神様によって創造され、神様と親しい交わりができるペルソナ(人格)に創られるのです。こうして、見える被造物の間で、ただ人間だけが自分の創造主の愛を知り、愛することができます。ペルソナ(人格)である人間は、自分を所有し、自由意志を持って自分と他人を知って人格的な交わりができ、創造主と親密な関係を作り、親子のように愛において一つに結ばれて生きることができます。
3)陥落した人間に対する御父の無条件である完全な愛
神様は、変わらない愛を持ち、神の子とする聖霊を人に注いでおられます。愛がペルソナの自由意志による行為ですから、人間は、神様を自分の父と認めて聖霊を受けるかどうかは、自由があります。創世記のアダムとエヴァの物語の中で聖霊を受ける象徴は、「命の木」とし、それを拒否することは、「善悪の知識の木」が象徴します。神様は、良い「父」として、人間に警告を与えます。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2章17節)と。しかし、人間は、その恵みによって神の子どもとする御心を拒んで、傲慢になって自らの力で神のようになることを選択しました。禁じられた木から実を取って食べたことは、その象徴です。(創世記3章)こうして、人間は自ら神様との絆を自由意志の濫用によって破り、自分を命と存在の源から自分を遠ざける者にしてしまいました。
離れて死ぬ危険にある子どもの親のように、神様は、罪を犯した人間に対して憐れみと慈しみを示し、アダムを探し求めて、「どこにいるのか」(創世記3章9節)と呼びます。また、エヴァに、「何ということをしたのか」(創世記3章13節)と尋ねます。人間の罪によって歪曲された神様のイメージは、世々にわたって人類に罪を犯すキッカケとなりました。人類の本性に傷を与えたその罪は「原罪」と言います。人間は、誘惑者(悪魔)が薦める偽りの善に誘惑され、神様を恐れて、神様の愛が分からなくなりました。そのために罪を繰り返し、その結果として苦しみと死に遭遇するものとなりました。
罪を犯す人間に対して、神様は罰をくだすことなく、「父」としての無条件で完全な愛と憐みを示して、罪と死から救いの計画を立てました。その計画の頂点は、神の子イエス・キリストによる救い業の実現です。イエス・キリストは御父の啓示です。人類は、キリストを見て、歪んだ神様のイメージを正すように招かれています。キリストの死と復活によって実現された救いの恵みに与るために、私たちは洗礼の秘跡を受ける時に、原罪の重荷から解放され、「神の子」とする聖霊を頂いて、真の神の子キリストとの一致の内に、主の教えに従って神様に向って、「天におられるわたしたちの父よ」と呼ぶことができます。
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(ヨハ6,60-69)
「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」ヨハ6,63
人間は、肉体的な存在でありながら、霊的な存在でもあります。人間の肉体は、その霊魂の形になっていると言えるほど、体と魂は密接に結ばれています。元々の人間の美しさは、神に似せて創られた魂の美しさを表していたし、人間の内面的な調和、また、人間同士や人間と自然との間の調和は、人間の魂と神の霊との間の調和を表していました。
原罪は人間の霊魂を傷つけて、神との正しい関係を壊すと共に、その霊魂の美しさを滅ぼしました。今私たちが体験しているいろいろな弱さや病気、また、創造主である神の望みに逆らう欲望は、私たちの霊魂の状態を表しています。この欲望に従って生きる人は、ますます神から遠ざかり、その霊魂をもっと深く傷つけるし、内面的な不和や人間同士の争いなども引き起こします。
人間の体の死も、原罪の結果です。死ぬ時、人間の肉体と霊魂が完全に分かれるので、不滅な魂が存在し続けても、人間は人間として存在しなくなります。再び存在するようになるために、体の復活とこの体と霊魂の新たな結合が必要です。
人間が信仰や愛によってキリストと結ばれ、キリストに心を開くならば、キリストはこの人の魂をご自分の霊で満たし、ご自分の魂の似姿に変えてくださいます。神の命に満たされ、神の子の魂のようになった霊魂は、元より美しくなります。このように魂を清めていただいた人だけが、「生命を受けるために」(ヨハ5,29)、つまり、神との愛の交わりに生きるために復活します。この人は、復活によって新たに創造された体を通してその新しい美しさを表し、神の栄光を輝かせながら、いつまでも神を賛美するようになるのです。
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テーマ: 「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ6章51節)
本日の福音は、次のような内容を含んでいます。イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、ユダヤ人はこれを信じることなく、つぶやき始めました。そこで、イエス様は御自身が御父から来られた者であり、御自分の方に来る人が皆、復活の恵みを受けて永遠に生きる者となることを教えられました。出エジプト時代の先祖たちは、40年間砂漠でさまよったが、天から降ったマンナを食べたお陰で約束の地に辿り着くことができました。しかし、誰一人が死を免れることはありませんでした。人は皆、永遠に生きるために、この度、御父が永遠の命の糧としてキリストをこの世にお遣わしになりました。キリストを日用のパンのように頂く人は永遠に生き、このパンは、キリストの「肉」であると言います。
福音の中で語られるキリストの言葉を旧約聖書の文脈の中で理解する必要があります。旧約時代のイスラエル人は、約束の地に向って砂漠を渡っていた時に乾きや飢えなどを覚えていました。モーセが神様に祈ると、朝露と同時に天から白い物が降りると、イスラエル人は、ヘブライ語で「マンナ」―「何だろう」という意味―と互いに尋ねていたので、その不思議なパンを「マンナ」と名付けました。マンナは、その一日のみの糧であり、明日ために蓄えておいてはいけませんでした。明日のことを心配して保管したマンナは腐敗し、病気の原因となったからです。
このようにして、マンナは比喩的に地上の人生を現し、人間のつたない命と無力を表現します。人間は神様無しに、一日も生きることができないことを諭します。したがって、私たちの一人ひとりが生かされていることを、常に神様に感謝し、自分のすべてを神様に委ねるにほかなりません。神様は信じる人の救いのために受肉の神秘によって人となり、マンナのように一日の糧ではなく、御自身が永遠の命のパンと成られました。最後の晩餐の再現である御ミサ中で、キリストはパンを取り、聖変化によってパンの内に御自分の存在を秘め、永遠の命のパンとなります。御ミサの時に御聖体拝領する信者は、「キリストの御体」によって自分の永遠の命を育みます。
キリストは、お与えになるパンは世を生かすためのご自分の「肉」のことであると仰いました。福音の原文であるギリシア語で、神様の被造物である人間の体をソーマ( SOMA)と言いますが、キリストはあえて、御自分の体のことを「サルクス(SARX)」と言われます。即ち、御自分の「肉」という言葉を用いています。サルクス(SARX)は、苦しみ、欲望、罪や死などに遭遇する人の体、また動物の肉を指しています。旧約時代に、ユダヤ人が罪の赦しのために小羊の「肉」をいけにえとして献げていたように、新約時代を始めたキリストは、御自身の体を十字架上のいけにえとして御献げになりました。御自分の内に人類が犯したすべての罪を吸収し、御自分の死を持って罪と死を滅ぼし、御復活をもって私たちに永遠の命を与えてくださいました。こうして、キリスト信じる人は皆、御聖体によって聖とされ、御復活したキリストを生きる者となります。
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(マコ6,1-15)
「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」ヨハ 6:11
恐らく、イエスが五千人に食べ物を与えた「ガリラヤ湖の向こう岸」というのは、ベトサイダのことです。イエスがフィリポにパンを売っているところを教えて欲しかったのは、フィリポがベトサイダの出身であったので、この地方を良く知っていたはずだったからでしょう。けれども、フィリポは、素直にイエスのお願いを適える代わりに、そんな大勢の人々のために十分にパンを買うことができるかどうかということについて心配したのです。
確かに、フィリポには集まっていたすべての人々を食べさせることができなかったが、パンを売っているところを教えることなら、フィリポにできることでした。イエスは、フィリポ一人にこの群衆を食べさせようと思ったからのではなく、ただそれに協力するチャンスを与えようとして、尋ねられたのです。けれども、フィリポは余計な心配をしたので、持っていた力さえもイエスに貸すことなく、協力するチャンスを無駄にしてしまったのです。
多くの人々の精神的や物質的な貧しさを見たり、世界にある様々な苦しみや悪を見たりして、すべての人々を助けたいという気持ちがあっても、私たちには助けることが決してできないのです。けれども、イエスはフィリポからすべての人々にパンを与えることを要求しなかったように、私たちからこの世のすべての問題を解決することや、すべての人を救うことを要求しません。これは唯一の救い主であるキリストにしかできないことなのです。イエスが私たちに求めておられるのは、救いの業に力ある限り協力することだけなのです。この願いに応えるために、私たちは、五つのパンと二匹の魚を持っていた少年と同じように素直にならなければならないでしょう。
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序.「カトリック教会のカテキズム」の第一編、「信仰宣言」
「カトリック教会のカテキズム」の四つの中で第1編は「信仰宣言」です。十二使徒の信仰を表現する初代教会が洗礼の時に用いられた信仰宣言は、「使徒信条」と言います。その信条の内容について誤解がないために、最初の二つ教会公会議、ニケア公会議(325年)とコンスタンティンポール公会議(381年)において「ニケア・コンスタンチノポール信条」を決定し、その内容を永久に変わらぬものとしました。使徒信条は洗礼約束の更新、また、文面を問答式にして洗礼の儀に用いられています。ニケア・コンスタンティンポール信条は基本的に主日と祭日の御ミサの時に用いられています。
使徒信条
天地の創造主、全能の父である神を信じます
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生れ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に葬られ、陰府に下り、
三日目に死者のうちから復活し、天に昇って全能の父の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、生徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠のいのちを信じます。
アーメン。
ニケア・コンスタンティンポール信条
わたしは信じます。
唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
わたしは信じます。
唯一の主イエス・キリストを。
主は神のひとり子、すべてに先立って父より生れ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体。すべては主によって造られました。
主は、わたし人類のために、わたしたちの救いのために天からくだり、聖霊によっておとめマリアから体を受け人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり、三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。
わたしは信じます。
主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は父と子から出て、父と子と共に礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。私は、聖なる、普遍の、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来生のいのちを待ち望みます。
アーメン。
これからは、信仰宣言の一つ一つの節を、聖書の言葉に基づいて解説致します。この第二講話は、ニケア・コンスタンチノポール信条の「わたしは信じます。唯一の神(を)」という節の解説になります。
1.「初めに、神」
初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった…(創世記1章1-3節)
1)唯一の「神」
聖書の最初の言葉、「初め」は、原文のヘブライ語で「ベレシート(bereshit)」というが、それは時間的なスタートを示す用語ではなく、時間、空間、あらゆる世界の存在以前の永遠性を表現します。現在のありとあらゆる存在の初めは、永遠性に遡る唯一の「存在」に由来するものです。この「存在」のみは、「神」と呼ばれる資格があります。神様は万物を無からお創りになり、「天(シャマイーム)」の霊的な世界も、「地(エレツ)」の宇宙万物も、時間と空間も存在するようになさった創造主です。こうして,すべては唯一の神様によって、唯一の神様のうちにあり、他の神々の存在は有り得ないことを示します。
創世記の「神」は、原文のヘブライ語で、「エロヒーム(Elohim)」と言います。驚くことに、「エロヒーム」は、複数形です。神様が創造の御業を、御自身の「言」と「霊」によって実現されたと書いてありますので、神様の内に交わりの関係があることを示します。旧約聖書は、神様が三位一体であることをまだ明記していませんが、この太初の物語は、キリストによってはっきりと啓示された至聖なる三位一体の信仰を裏付けます。
2)唯一の「神の子」
福音記者の使徒ヨハネは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(…)言は肉となってわたしたちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」(ヨハネによる福音1章1-4,14節)と信じるために書いています。使徒ヨハネは、唯一の「神の言」が受肉して人間としてこの世に誕生し、それは唯一の神の子、イエス・キリストのことであると言います。
人となられた神の言葉、イエス・キリストは、神様を「父」と呼びます。こうして、御父は唯一の神様の第一ペルソナ(位格)で、キリストは、同じ神様の第二ペルソナであることが分かります。キリストは、もうひとりの神様ではおられません。使徒フィリポが、御父を示してくださるように願うと、イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」(ヨハネによる福音14章9-10節)とお答えになりました。いわゆる、御父と御子イエスは、実体も本性も同じで、「一体」であることを啓示してくださいました。
3)唯一の「神の霊」
創世記は、世の「初め」に、「神の霊が水の面を動いていた。」と言います。いわゆる、神様による創造の御業とすべての働きは、聖霊と言われる神の霊によって実現されていると言います。聖霊は、原文のヘブライ語でルアー(Ruah)と言い、神の息吹であり、また命の与え主です。最初の人間(アダム)を創造する時に神様は、「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)と書いてあります。人を生きるようにした神の息は、ヘブライ語でネシャマー (neshama) と言います。したがって、それは人間が神様によって生かされており、聖霊によって永遠に生きることができるように不滅の霊魂が備えられたことを伝えています。しかし人間が、聖霊(ルアー)御自身を受け入れるか、それとも拒むかは、その自由意志によるものです。もし、聖霊(神)を拒むなら、罪を犯して命の源から遠ざけることになります。もし御心を行うなら、聖霊に満たされて神の命に与り、永遠に生きる者となります。
アダムは、罪を犯したから、人間に死が訪れたと創世記(3章)が教えています。その後、神様は、旧約の多くの預言者たちに聖霊を送り、すべての人を神様に立ち帰るように呼びかけ、神と人とが一つに結ばれて生きるために選ばれた人(アブラハム、モーセ、ダビデなど)、によって御自分の民にしようとイスラエルと契約を結ばれました。また、新約時代に、聖霊によって聖母マリアは神の子を身ごもり(ルカ1章35節)、救い主をこの世に生んでくださいました。キリストは洗礼の時に聖霊を受けて(ルカ3章22節)神の国の実現のために福音宣教をなさいました。また、キリストは、世の終わりまで救いを実現していくために天に昇って御父のもとから弟子たちに聖霊を注いでくださいました。(使徒言行録2章1-4節)
聖霊は唯一の神様の第三ペルソナ(位格)としておられる御方であり、他の神ではおられません。キリストは弟子たちに聖霊を約束してくださった時に、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネによる福音16章13-15節)という言葉をもって、父と子と聖霊は、実体も本性も同じだから、唯一の神であることを啓示しました。そして、御昇天なさる前に、すべての人を真の神と一つに結ばれるために、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けるように、弟子たちを全世界に派遣しました。すべての人は「父と子と聖霊」の交わりの中で生きるためです。
2.唯一の主
イスラエルの民がエジプト奴隷になった時に、神様はシナイ山のふもとでモーセに自分自身を啓示しました。出エジプト記の「燃える柴」の箇所でモーセは次のように書いています。
神は(燃える)柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。(...)神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(出エジプト記3章4-8,14節)
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神様は「聖」なる御方です。
神様の臨在によってモーセがいたシナイ山のふもとは、聖なるものとなりました。「聖」は、「清い」という意味だけではありません。「ここに近づいてはいけない」という神様の言葉が冷たく聞こえますが、それは神様がすべてを越える方であるという現実をハッキリと現します。神様は、永遠の昔から永遠の未来へと時間も空間も越えて、完全な存在、創造主です。すなわち、神様と人間の間には、創造主とその被造物の究極的な差があり、人間はこの御方に並ぶことができないことを示します。神様はすべてを超越する御方です。その聖性によって限りなく偉大、天国において天使たちも御前では自分の顔を翼で覆うほどに栄光に満ちる御方であると預言者(イザヤの預言6章2節)は言います。したがって、人間は、自ら神様に近づくこともできないし、罪に染められたまま交わることもできません。神様の呼びかけに応えた人のみが清くされ、神様と交わることができます
2.神は「愛」なる御方です。
神様は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であると自己紹介し、イスラエルの先祖たちを選び、その子孫までに祝福し、イスラエルをご自分の民とする永遠の契約を結んだことについて間接的に触れています。そして、神様は御自分民の苦しみを御心に留めて、「彼らの所に降って行き...」、憐れみと慈しみを示し、すべての悪から救い、約束の地で祝福を溢れるほどに与えてくださると約束してくださいます。
人間が神様と交わりを可能にするために、神様はモーセに掟を与え、民がそれを守るようにお命じになりました。そしてキリストは、すべての律法と預言者の教えを一つにまとめるのは、「愛の掟」であると言われました。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6章4-5節)限りなく偉大な神様は、小さな被造物であるわたしたちを愛しておられます。その愛に応えてわたしたちは、神様を唯一の主と認め、自分たちの生活のすべての次元でただ唯一の主を愛し、他のものに与える愛も神様さまへの愛の中に置くものとならなければなりません。このようにして、わたしたちは、自己中心から解放されて、純粋な神の愛を、初めて隣人に対して実行することができます。したがって、キリストの愛された弟子、ヨハネは手紙の中で、こう書いています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(ヨハネの第一手紙4章7-8節)
3) 神は「ヤ―ウェ(YHWH)」です。
モーセは、イスラエルの民にどんな神によって遣わされたかという質問に応えるためにその御名を尋ねました。神様は、「私は私です。」(原文の直訳)とお答えになりました。その御答えには、他の神々が存在しないのに、何故、唯一の神に向って、「どこの神か」と尋ねるのかと、いうようなニュアンスが入っています。ここで神様は、自己啓示として、自分の存在を表現する御名を現しました。それは、ヘブライ語の神秘的な四つの文字、YHWH、『わたしはある』という意味の御名です。おそらく、「ヤーウエ」という発音を持った御名は、神様が自らの存在で、すべての存在の源、すべての存在がその内にある御方、いつも共におられる御方であることを教えます。
3.「信じます」
1)信条(クレド)
序の中で紹介しました信条は、ラテン語で信仰宣言は“CREDO(信じます) IN UNUM(唯一の) DEI(神を)”という言葉から始まります。最初の単語はラテン語でCREDOですから、日本語でも信条を「クレド」とも言います。クレド(Credo)は、単数一人称の動詞ですから、「わたしは信じます」という意味になります。皆と合せて形式に唱える文だけではなく、信条は一人ひとりの信仰告白です。
唯一の神様は、人間の理解を超える「三位一体」いう神秘です。キリストは、至聖なる三位一体について次のように説明しています。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネによる福音16章13-15節)と。以上の箇所は、神様が唯一であるが、孤独ではなく、「父と子と聖霊」がこの三者の存在様式をもつことを示します。三者の区別は、その起源の関係に由来し、御父が御子を生み、御子は生まれ、聖霊は発出します。御父全体は御子の内に、又聖霊の内にあり、御子全体は御父の内に、又聖霊の内にあり、聖霊全体は御父の内に、又御子の内にあります。三位は実体と本性の相違も上下関係もありません。神様は、三位の相互の交わりにおいてすべてを与え合い、ご自身の三位を一体にする完全な愛です。
2)「神との契約」
聖書はわたしたちが神様を信じるための、神の啓示です。聖書によると、「信じる」とは、神の存在を認めることだけではなく、神様との関係です。神様と人との関係は、聖書の中で「契約」によって表されています。こうして旧約聖書に神様は人間と繰り返して契約をお結びになりました。ノアの契約、アブラハム契約、モーセによって結ばれたシナイ山の契約とダビデの契約です。旧約時代のすべての契約は人間側で破られました。
イエス・キリストは、最後の晩餐の時に御自分の死と復活を持って神と新しい契約を結び、すべての人々を洗礼の秘跡によってその契約に与るように招き、最後の晩餐を再現する御ミサの中で、御聖体の秘跡によって、その契約は教会の中で実現していきます。それは次の福音の言葉によって表現されています。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカによる福音22章19-20節)
日本語の「契約を結ぶ」とは、両者のメリットのために、相互関係を法律的に取り交わすものを意味します。ところで、ギリシア語で書かれた福音書は、ディアテケ(diatheke)という用語を用いています。ディアテケ(契約)は、一方が他方に無条件に恩恵を与える法律上に結ばれた両者の関係を現します。この法律は、遺言に用いるケースが多かったのです。ヘブライ語を話されたキリストは、「契約」のことをベリス(berith)と言われていたに違いません。「ベリス」は、双方の望みで結ばれた契約を意味するわけではなく、一方が自ら他方に恩恵を約束し、他方はこれに同意してそれを受け入れるならば、その恩恵によって双方は一つに結ばれることを意味します。
信条はラテン語で“SYMBOLUM FIDEI”と言います。日本語で用いられている外来語、「シンボル」は、「象徴」と同じような意味で用いますが、ギリシア語のシュンボロン(symbolon)は、元来、二つに割った物の半分を意味しました。認識票として提出するために割り符は合わされて、携帯者を識別するしるしとされました。同じように、わたしたちが持っている信仰は、「シュンボロン(symbolon)」でなければなりません。本当の信仰の持ち主は、自分の信じる心を神様の御心に合せると一体になると、いうシュンボロンを持つ者です。換言すれば、信仰生活は、「契約(ベリス)」の中で神様と一つに結ばれて生きることです。
結. 宇宙万物のすべての被造物も、わたしたちも存在するのは、唯一の神様が「愛」だからです。永遠で別け隔てのない真の愛の内にすべてが在るから、わたしたちはその愛に応えて、神様の栄光を讃えること、自分を神様のものとして委ねることを最大な喜びとし、人類の皆を兄弟と見做して大切にし、被造物のすべてを感謝の内に正しく用いる惠みと力を頂けます。