メッセージ - A年 年間 |
花婿が花嫁を迎えに来るのを待っている10人の乙女の内に、5人の愚かで、5人は賢い乙女たちでしたが、10人とも花嫁の家で一緒に待っていました。10人ともみんなそれぞれ「ともし火」を持っています。婚礼に行く乙女たちなので、おそらく皆、おしゃれして待っていることでしょう。しかし、花婿が来るのが遅れて、待ちくたびれた10人は全員「眠り込んでしまいました」。この時点までは、どちらかが賢いものか、どちらかが愚かなものかは誰も知らない、区別することができません。
真夜中になって、花婿の到着を知らせる叫び声を聞いて、それぞれ慌ててともし火を整えます。その時に、初めて誰が愚かなのか、誰が賢い者なのかが分かります。愚かな者と賢い者の差がその時にはっきりと分かります。愚かさと賢さの分かれ目は「油」を用意したかどうかということにあります。愚かな5人の乙女が、気付いたときにはもう遅かったのです。普通ならば、婚宴に少し送れるくらいなら、入ることが許されるのですが、イエスがたとえ話の中に語られる婚礼は特別なものです。油を用意しなかったために遅れてきた乙女たちに対して、「はっきり言っておく、私はお前たちを知らない」と厳しく断りました。最終的に、5人は楽しみにしていた婚礼に参加することができませんでした。
第1朗読の知恵の書の言葉で言い換えれば、賢い5人の乙女たちは知恵のある人達です。普通の意味で、「知恵」という時に「知識、認識」と同時に、「それを正しく用いる、行動する」という観念的な側面と実践的な側面があります。それが普通に考えられる知恵ですが、聖書の中(特に今日の第一朗読の中)の「知恵」は全く違う特徴があります。それは、知恵は知識とその実践によって獲得されるものではなく、一人の人格です。「獲得される」ものではなく、「出会う」ものです。そして、知恵は「神」ご自身です。「知恵を愛する人には進んで自分を現し、探す人には自分を示す。求める人には自分の方から姿を見せる。知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、道でその人達にやさしく姿を現し、深い思いやりの心で彼らと出会う」。知恵は出会うものです。神ご自身です。
そうであれば、賢い5人の乙女、知恵ある乙女たちは、「知恵」を探し、「知恵」に出会った人たちです。賢い乙女たちにように、花婿と花嫁と共に婚礼に参加するために、先ず用意しなければならない、やっておかなければならないのは、日々「知恵」そのものを探し、神ご自身と出会うことです。
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イエスは律法学者やファリサイ派の人々について「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない」と語っています。そこには「言うだけで実行しない」という、彼らの言葉と行いに乖離があることへの批判がありますが、それは第二朗読でパウロがテサロニケの教会に向けて語ったことに通じます。テサロニケの人々は、パウロたちが語る言葉を聞いて「それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」と言われています。神の言葉を神の言葉として語るとき、それを語る者も聞く者も、神の前に謙虚になります。しかし、律法学者やファリサイ派の人々は、神の言葉を語りながら、それを自分の権威の裏付けのように用いました。まさに神の言葉を人の言葉のように、あるいは自分の言葉のように語り、先生と呼ばれ、仕えるよりも偉くなることを望み、へりくだらずに高ぶりました。第一朗読のマラキの預言でも、神とイスラエルの共同体の仲介者である祭司たちに、主の名に栄光を帰することが祝福につながる道であると言われています。
私たちが神の言葉を語るとき、そこにいるのは神でしょうか、それとも私たち自身でしょうか。私たちは神の言葉に仕えているでしょうか。人に仕えさせてはいないでしょうか。
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きょうの福音にはキリスト教にとって、最も大事な「愛の掟」について記されています。「神を愛し、隣人を愛す」という最大の掟です。この二つの掟は切り離すことができない神の御心として、私たちの前に置かれているとイエス様がおっしゃっています。
きょうの説教で注目したいことは、主イエスが語った第二の掟の内容です。主イエスは、「隣人を自分のように愛しなさい」と言っていました。まず、この「隣人を自分のように愛しなさい」というのは、レビ記19章18節の「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」から来ています。
まず、主イエスが語った、「自分のように」という言葉を理解したいと思います。主イエスは、「自分のように」と言っていましたが、それは、「自分を愛するのと同じ程度に熱心に」ということではなく、「自分を愛するのと同じように無条件で」という意味です。そして、その無条件の愛の根拠は神の愛です。神がそのような質の愛をもってわたしたちを愛してくださっています。神は私たち一人ひとりの命を掛け替えのない存在として大切にしてくださっているから、私たち自身も自分を掛け替えのない存在として大切にしなければなりません。それが他者への愛の始まりです。それほどの愛を持つならば、他者への愛を実行することができるのです。
では、自分を愛するとは何でしょうか?「自分を愛する」ことは、先ず、「ありのままの自分」を受け入れるということです。自分を前向きに深く深く、どこまでも否定せず、全ての感情と身体のすべての部分を愛しむことです。苦しみも、悲しみも、楽しみも、喜びも、恐れも。失敗も、成功も、怠惰も、努力も、才能も、無能も。どんな自分にも、良い、悪い、短所、長所の優劣をつけず、どうにかしようとさえ思わず、ただ、今、この状態で在る自分を、受け止め、認め、有難いと感じることです。
是非、素直にとことん自分と向き合い、意志を強め、自分らしく生き伸びていきましょう。自分と向き合うことによって、弱い部分を認め、同時に、自分の中にある力の原点を見つけ出すことができるだろうと思います。それが「弱い自分に打ち勝ち」=「強い自分を作る」という幸せな人生の一つの方法です。
どうか、自ら自分を愛し、また、他者を自分のように愛して、そして、言うまでもなく先に私たちを愛してくださった神を愛しましょう。アーメン。
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ラテン語の名句のひとつに、「Pro Deo et Patria」があります。あまり聞き慣れない言葉だと思いますが、「Pro Deo et Patria」とは、「神と国のために」という意味です。このメッセージは、「良い信者でありながら、良い国民であるように」ということです。つまり、キリスト者として、一方だけを大切にして、他方を無視してはいけないということです。言い換えれば、「国民」として、私たちは社会の中に生き、社会と関わっているので社会のことを大切にしなければなりませんが、同時に「教会の信者」として、教会のことに関わっていかなければならないということ、人生の中で両者のバランスを取る責任があることを意味しています。
今日の福音書では、ファリサイ派とヘロデ派の人たちが主イエスに、「先生、皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と聞きました。この質問に対して、主イエスは、賢い判断を示してくださいました。主イエスは、デナリオン銀貨を手元において、肖像や銘を確認した上で、「皇帝の肖像や銘なら皇帝に、神の肖像や銘なら神に返しなさい」と言われました。では、銀貨には皇帝の肖像や銘がありますが、神様の肖像や銘はどこにありますか。それは、私たち人間の中にあります。なぜなら、私たちは神の似姿に創られた者だからです。さて、私たちが神の似姿に創られているのであれば、神に何かを返さなければならないと思います。それは、何よりもまず、私たちの命、全身,全霊、すべての意志や自由、思い、言葉、行い、いわゆる私たちの全生涯を神に捧げなければならないということです。これが、「皇帝の肖像や銘なら皇帝に、神の肖像や銘なら神に返しなさい」と主イエスが言われた言葉のひとつの意味だと思います。
もうひとつ、共に考えたいことは、この主イエスの、「皇帝の肖像や銘なら皇帝に、神の肖像や銘なら神に返しなさい」という発言です。これは「宗教と政治:教会と社会」を区別するという意味ではなく、むしろ、どちらも人生において必要なものであり、両方とも大切にしなければならないということです。
簡単に言えば、私たちは良い国民として税金を払わなければなりません。また、良い信者として維持費を払わなければなりません。良い国民として、社会の事に積極的に関わらなければなりません。また、良い信者として教会の活動に積極的に関わらなければなりません。
教皇フランシスコは2023年8月31日‐9月4日にかけて、モンゴルを訪問されました。最後の日に取り行われたミサの終わりに、中国国民に向けて挨拶をおくると共に、中国のカトリック信者らに励ましの言葉を述べられました。教皇フランシスコは、「わたしは中国の高貴(こうき)な国民に、心を込めて挨拶をおくりたいと思います。すべての国民の皆さんに、より良いものを、常(つね)なる前進(ぜんしん)と発展(はってん)をお祈りいたします。そして、中国のカトリック信者の皆さん、よいキリスト者であると共に、よい市民であってください。」と述べられました。
皆さん、「空の鳥は高く飛ぶために二つの翼が必要」です。私たち自身も、生きていく中で、人生のバランスを取らなければならないと思います。国に対しても、教会に対しても、両方とも大切にしなければならないのです。一方を大切にして、他方を無視したり、ないがしろにしたりするなら、人生のバランスが崩れてしまうと思います。
どうか、「良い国民」でありながら、「良い信者」でありましょう。
アーメン。
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先週の「ぶどう園と農夫」の例え話に続き、今日の福音箇所でもイエスは「婚宴の例え」を用いて、天の国について、そしてそこに招かれる人について説明しています。この箇所では、最後の一文「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」という言葉が、非常に大きな意味を持っています。
今日の例え話に出てくる王は神であり、婚宴を行う王子はイエスのことを指していると考えると、この話は、神が独り子イエスのための婚宴、つまりイエスを迎える日を用意し、そこに人々を招待したものであると想像できます。あらかじめ王がこの婚宴に「招いておいた人々」は、誰一人としてその招きに応じず、みな自分のことを優先しました。この人々は「ふさわしくなかった」と明言されています。その後、善人も悪人も、大通りにいた人々は全てこの婚宴に招かれましたが、礼服を着ていない人は、外に放り出されてしまいました。招きに応じた人の中でも「ふさわしくない」人が選別されたわけです。要するに、この例え話では「招き」に対する「応答」が重要であると言えるでしょう。
神の呼びかけ、招きは、私たちすべての人間に対して行われていますが、この招きをありがたく思う人もいれば、まだ自分では気づいていない人もいます。ただ、それだけではなく、私たち人間の応答がふさわしいものか否かも判断されているのです。こう考えると、とんでもない無理難題を押し付けられているかのように思えてきますが、決してそんなことはありません。今日の例えの中で「ふさわしくない」と判断された人々は、自分に求められている「招き」に気づいていながらも、自分のことばかりに目を向け、応えることを拒否した人々でした。確かに私たち人間の日常を鑑みても、自分自身のことで精いっぱいで、なかなか神への応答についてじっくりと考える余裕はないかも知れません。一方で、自分が助けてほしいときには神に多くのことを願い求めてしまいます。人間とは、そうした弱い存在です。それでも神はいつ何時どこでも私たちの願いや訴えを聞き入れてくれています。ですから、私たちも、そんな神に感謝をしつつ、ほんのわずかでも、神からの呼びかけに対して応える、あるいは応えようとすること、神は自分に今何を求めているのだろうか、自分はその求めに正面から応えることができているだろうか、と考えてみること、このことが神の前にふさわしい応答をするに繋がる一歩目となるのだと思います。
私たちがこの例え話から得られるメッセージを、自分自身に向けられたものとして受け止め、これからの生活の中で活かしていくことができるように、そして神にふさわしい応答を行う人間となっていくことができるように、共に祈りながら、改めて今日の福音箇所を黙想してみましょう。