メッセージ - A年 待降節

マタイ福音書の、ヨセフへの夢の中でのイエス誕生のお告げの場面(1:18-24)では、マリアの胎内の子について、第一朗読のイザヤの預言(7:10-14)にもある言葉を用いて、「インマヌエルと呼ばれる」と言われています。生まれてくる子がどのような人物かを表す描写です。

「インマヌエル」は「神は我々と共におられる」という意味ですが、「共におられる神」というアイデンティティは、少しインパクトに欠けるようにも思われます。「偉大な力で世界を救う」でもなく、「全知全能」というのでもなく、「共にいる」だけだと言うのです。

けれども、「いる」ということは、非常に重要なことです。燃える柴の中からモーセに語りかけた神は、ご自分のことを「わたしはある」と言い、モーセといつも共にあることを約束しましたが、エジプト人に追われているときも、荒れ野で水も食料もないときも「神が共にいる」ことに力づけられて、モーセはイスラエルの民を約束の地へと導く使命を果たすことができました。イザヤ書では、弱小国であるユダの国が脅威にさらされているとき、それでも彼らを見捨てることなく「共にいる」のだから、大国アッシリアではなく自分を頼るように、と神はイザヤを通してアハズ王に語りました。イエスは、いつも貧しい人、病に苦しむ人、罪人としてさげすまれている人のそばに居続けました。聖書の中では、「何かをする」以前に、「共にいる」こと自体が救いの表れでした。

私たちは孤独ではありません。喜びの時、つらいとき、恐れるとき、苦しいとき、涙するとき、笑うとき、いつも「共にいる」と約束された方がいます。その誕生の祝いが間近に迫っています。

 
メッセージ - A年 待降節

待降節第三主日の今日の福音では、洗礼者ヨハネについてイエスが群衆に対して教えている場面が描かれています。イエスはヨハネの弟子たちに預言者イザヤの預言を用いて、自らの行ったわざを通して、預言の成就がされていること、すなわち自らが救い主であることを示し、その後に群衆たちにヨハネについて教えています。この中でイエスは群衆に「あなたがたは、何を見に荒れ野に行ったのか」と問いかけています。この場面は洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を授ける場面を我々に想起させます。洗礼者ヨハネは来るイエスを迎えるために洗礼を授けますが、その洗礼は荒れ野に集まるいわゆる「罪人」のためであり、来るイエスも罪人とみなされていた、小さな人々のために来られることをその中で示します。その意味で洗礼者ヨハネは、小さな人々のために来られるイエスを宣べ伝える預言者以上の預言者であるとみなされています。

私たちもこれからクリスマスを迎えるわけですが、私たちはイエスを迎えるにあたって、イエスの降誕に「何を見るのか」、どこに喜びを見出すのかということを問いかける必要があると思いますが、その喜びが小さな人々と共にあるということを、忘れてはならないだと思います。わたしたち自身もイエスの降誕に喜びを見出す必要があると思いますが、如何にして小さな人々と共にその喜びを見出すことができるかということが、待降節にあたって私たちがイエスを迎える準備として必要になるのではないでしょうか。わたしたちは待降節にあたって、それぞれが祈りや犠牲を行うと思いますが、その行いを通して、洗礼者ヨハネが行ったように、わたしたちも小さな人々のことを思い起こし、その人々と喜びを分かち合うことこそ、わたしたちがクリスマスを迎えるにあたって必要な準備になるように感じます。

 
メッセージ - A年 待降節

私たちは待降節第2主日を迎えます。待降節の間に私たちは二つの重要な準備を行います。一つは、2千年前のイエスの誕生、神が実際に歴史の中で人間として生まれたことを記念し、それを今ここで追体験できるための準備を行います。アドベントのロウソクを灯したり、馬小屋を作ったり、クリスマスカードを送ったり、黙想やノヴェナなどを行なったりして、目に見える準備をしながらクリスマスを迎える心の準備を整えていきます。

もう一つの準備は、最終的なイエスの来臨、聖書に出てくる世の終わりの時のイエスの到来、第二の到来を準備します。これは、私たち一人ひとりにとっては、自分の人生の終わりを指していると考えて良いのではないかと思います。この二つの準備はどちらも必要です。二つの準備はつながっているからです。目の前のクリスマスの準備は、人生の終わりに訪れる主を迎える準備につながっていきます。

では、主の来臨のためにどのような準備が必要なのか。またどのように準備しなければならないのか、今日のマタイ福音書は、洗礼者ヨハネは声を通してそのヒントを与えています。洗礼者ヨハネは声を張り上げて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」。そして「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と。洗礼者ヨハネは何を私たちに求めているのでしょうか。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というのは、つまり、大胆な決断と行動をとることが求められるということではないかと思います。クリスマスは神が私たちを救うために、私たちに救いの道を示すために人間となったという神の大胆な行動であるならば、それに対して私たちからも大胆な行動で答えることが求められるということです。中途半端な気持ちではなく、徹底したものが求められるということです。そして、洗礼者ヨハネの言葉の後半の部分にあるように、具体的な行動が求められています。もしも進むべき道から外れているのであれば、今ここで正しい方向へと直す。人への無関心な心の谷を具体的な愛の実践で埋める。他人よりも自分が優れていると傲慢になってしまった心を具体的な奉仕の精神で低くする。うまくいかない人間関係や様々な悩みごとで凸凹になってしまった心を日々の祈りと犠牲を通して安定させることなど、徹底した行動、徹底した改心が求められるのです。

クリスマスを迎える度に、洗礼者ヨハネは声を張り上げて、改心を呼びかけています。神の想いに応える私たちの大胆な答えを呼びかけています。目の前のクリスマスの準備は、人生の終わりに訪れる主を迎える準備、一人一人にとっての最後のクリスマスにつながっていきます。目の前のクリスマスの準備ができない人は、人生の終わりに訪れる主を迎える準備も出来ないということが言えるのではないかと思います。今年のクリスマスに向けて、神の想いへの応えとして私がとるべき大胆な行動、私の具体的な決心は何でしょうか。

 
メッセージ - A年 待降節

 

今日は待降節第1主日であり、典礼暦年が始まります。待降節の典礼にはイエス・キリストの到来、また再臨の神秘を強く感じ、神の救いを受けるための心の準備をするように呼ばれています。待降節は四つの主日からなり、それぞれに心の準備のためのテーマが分けられています。第一主日は「目覚めること」、第二主日は「悔い改め」、第三主日は「喜び」、第四の主日は「光」というテーマとなっています。待降節に聞く聖書の言葉は、夜空の星のように私たちを導くので、この四つのことを考え、心に受け止めるように祈りましょう。

さて、今日の第一朗読の「イザヤ書」は主の神殿の山が高くそびえ、多くの民が来て、ヤコブの神の家を訪れると教えています。この民はイスラエルと他の国々の人であり、主の導きに従うことになり、主の光の中に歩むことによってメシアのこられた時が示されることになります。この時については第二朗読「使徒パウロのローマ教会への手紙」の中に書かれています。「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから目覚めるべき時が既に来ています。」また、「闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身につけましょう。」とパウロが教えます。

さらに、「マタイによる福音」の中にもイエスは「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなた方にはわからないからである。」という心構えに呼びかけ、ご自分が来られる日を予告します。

目を覚ますことは信仰の第一ステップです。それは、警戒することだけではなく、神の国が近ついたと気が付くことであり、神の御言葉の招きに従う熱意です。

主の再臨は思いがけない日となることについて書かれているので、目を覚ましましょう!

自分が今日から「目覚めなければ」、神様の訪れも、自分自身に与えられた神様の恵みもすべて無駄にする恐れがあるからです。神様はどのように私たちに話しかけているのでしょうか。神様はご自分の教会と御言葉を通して私たちに話し、また時代のしるし、心の響を通して私たちに話してくださいます。「主は私たちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」とすべての時代の人々とともに呼びかけ、キリストの救いに与ることができるように願いましょう!

 
お知らせ - お知らせ

日本のカトリック教会は、毎年11月の第三日曜日からの一週間を「聖書週間」としています。今年は11月20日~27日で、フランシスコ教皇の回勅『兄弟の皆さん』より「あなたの隣人とはだれか(ルカ10・25-37)」をテーマとし、「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10・37)を聖書のことばとしています。カトリック中央協議会からお知らせが出されており(リンクはここ)、毎年発行されている小冊子『聖書に親しむ』のPDF版も同ページからダウンロードできます。

この聖書週間に合わせて、私たちも小冊子を作成しましたので、どうぞご覧下さい(ここをクリックすると開きます)