メッセージ - A年 年間 |
今日の福音の中で、イエスが弟子たちに言われた「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」という言葉は、現代を生きる私たち一人ひとりにも向けられているメッセージであると思います。
自分の十字架、というと、想像するのは、生きる上での苦痛や困難、あるいは自分の過去など、人それぞれに思い浮かぶものがあります。そうした、本当は背負いたくないものを背負っていく、その姿勢は人間として褒められるべきであるでしょう。しかしそればかりを私たちの生活の中心としてしまってはなりません。自分にとっての様々な十字架を背負いながらも、自分を捨ててイエスに従うことが求められているのです。
イエスに従う、キリスト者としての生き方にも様々な形がありますが、イエスは私たちに最も大切にすべき掟として「神を愛すること」そして「隣人を自分のように愛すること」という2つのことを教えています。すなわちイエスに従うとは、隣人、自分以外の誰かのために、自分を使うことであると言えます。この事を今日の福音に当てはめて考えれば、自分の十字架を背負いながらもイエスに従う、という生き方は、自分をとりまく様々な事柄がある毎日の中でも、自分ばかりのことだけでなく、他の人のために自分の時間を使う、自分をささげる、その心を忘れずに生きる、ということではないでしょうか。自分にとって忙しい時、悩みがある時など、自分のことだけで頭がいっぱいになる時には、私たちは他人に構う余裕が無くなってしまいがちです。ですが、そんな時にこそ、自分のことだけに囚われるのではなく、どんな小さなことであっても、他の人の助けとなれる努力をしてみる、他人のことを考えてみる、それが今、私たちが生きている中で「自分の十字架を担いつつも、イエスに従う」ということに繋がっていくのではないかと思います。
今日は特にこの事を、弟子たちと同じように、イエスからの私たちへのメッセージであると受け取り、それぞれの生活の中でも、イエスに相応しいと言える生き方を、私たちが歩んでいくことが出来るよう、その助けを願いながら共に祈りましょう。
メッセージ - A年 年間 |
今日の福音の中でイエスは、天の国の鍵をペトロに授ける場面が描かれています。そして「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエスはペトロに言われています。「繋ぐこと」は法律的な用語で禁止、もしくは規制を意味し、また「解くこと」は許可、赦しを意味しています。これはペトロに教会を牧する権威を与えたことを意味し、ペトロの跡継ぎである教皇もこの権威が委ねられています。このようにしてみると、教会は規則に縛られているように見えますが、一方でイエスは人々の救いのために天の国の鍵を与えられています。そのためこの天の国の鍵はペトロの独裁を許すためではなく、人々に救いを与えるため、特に赦しに関する権威も同時に与えられていることも考えなければなりません。
私たちは教会共同体の中に救いと赦しがあること、そして神のもとに一致していることを示さなければなりません。その意味で教会共同体での決まり、共に過ごすことは私たちにとって「枷」ではなく、「救い」と「希望」であると言えます。そのために私たちは様々な決まりを守りながら、聖霊の導きを信じ、教会共同体を支えていく必要があります。
私たちが私たちの間に働く聖霊を信じ、そして私たちの間に共にいてくださるイエスを信じて共に歩むことができるように恵み願いましょう。
メッセージ - A年 年間 |
「主よ、助けてください」という病気の娘を持つ女の切実な願いに対して、イエスは「子供達のパンをとって子犬にやってはいけない」と答えました。イエスが彼女の願いを拒否したのは、彼女がイスラエル人ではなく、カナン人だからです。このようなやり取りを聞くと、イエスは女を差別したと言われても仕方がありません。しかし、イエスは意図的に彼女を差別しようとしたのか。決してそうではありません。
マタイ福音書全体のコンテキストの中でこの話を読むと、そこにはイスラエルから始まる救いが最終的にすべての人に広がっていくというマタイの思想が反映されていることが分かります。マタイ福音書において、アブラハムの子ダビデの子であるイエスが最後に天にあげられる前に弟子達に命じたのは、全世界に行って、すべての人に福音を述べ伝えることです。このようなマタイのコンテキストの中でカナンの女の物語を読むと、そこにはイエスがもたらす救いが「イスラエル」という地域的・限定的な範囲からすべての人に及ぶ普遍的なものとして広がっていくプロセスが分かります。
神はイスラエルの人々だけではなく、すべての人の救いを望んでおられることは第一朗読のイザヤの言葉、及び第二朗朗読のパウロの言葉で明確になっています。パウロは、ユダヤ人と異邦人に及ぶ救いの普遍性は神の憐れみと慈しみによるものであることを強調しています。つまり、すべての人の救いは神の業であり、神がすべての人を救うためにイニシアチブをとっています。パウロは、人の不従順でさえも、人々を救う神の憐れみが示されるためだと語っています。
しかし、神による救いの呼びかけは人の応答を求めています。つまり、人は不従順のままにはいられません。イザヤは神の憐れみの業に対する人々の具体的な行動について語っています。「正義を守り、恵みの業を行う」ことが求められています。神に対する信仰が求められているということです。
その意味で、カナンの女の願いに対するイエスの否定的な返事は結果的に彼女の揺るぎない信仰を示すことになります。イエスは彼女の信仰に感心しました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」。しかし、イエスが彼女の娘が癒されるのは他でもなく、神の憐れみによるものだということは彼女の言葉から明確になっています。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください」。彼女がイエスに示す信仰は、神の憐れみに対する応答に他なりません。
私たちも皆、神の憐れみによって「今」ここで生きています。信頼を持って全てを委ねるカナンの女のような揺るぎない信仰で応えることが出来ますように。
メッセージ - A年 年間 |
今日の福音朗読(マタイ14:22-33)は、イエスが湖の上を歩く、という奇跡の箇所です。イエスは弟子たちだけを舟に乗せ、ガリラヤ湖の向こう岸に先に行かせました。ところが舟は嵐に遭い、弟子たちは波に悩まされ。そこに湖の上を歩いてイエスが近づくと、彼らは「幽霊だ」と恐怖のあまり叫び声をあげました。しかし、イエスが「安心しなさい。わたしだ」と呼びかけ、舟に乗り込むと風が静まった、という話です。
この話の途中には、ペトロが自分も水の上を歩いて湖上のイエスに近づかせてほしい、と望むエピソードが挿入されています。ペトロは水の上を歩くことができましたが、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけます。イエスはペトロに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言いました。
実際にこれらのことがすべて文字通りに起こったかどうかはともかく、弟子たちが困難や恐れをどう乗り越えるかが描かれたお話です。湖で波風におそわれたとき、弟子たちが頼るべきは、嵐に翻弄される舟ではなくて、嵐の湖にまったく影響されていないイエスでした。初めは目の前にいるイエスのことがわからずに恐怖が積み重なっていきましたが、イエスを舟に迎え入れると風が静まりました。イエスへの信頼よりも強風への恐れが強くなったときにペトロが沈み始めた、というのも印象的です。
私たちも日々生きていく中で波風に打たれ、嵐に襲われるとき、恐れや不安が生じるのは当然です。うまくいかない、もうだめかもしれない、そう感じることもあります。けれども、その波に飲み込まれないようにするためには、その困難や不安を生み出している世の中の「あたりまえ」を越えたところに私たちの信頼を置くしかありません。私にとって、イエスはそれに足る方でしょうか。この世界の価値観をこえた大切な真理があると信じ切ることができているでしょうか。
メッセージ - A年 年間 |
日々忙しく慌しい生活をしている私たちは、やはり一週間に一度ぐらいは、ゆっくり体も心も休ませる時間が欲しいと思います。そのために、多くの人は日曜日を休みの日として取っています。その一日にしっかり休みを取れば取るほど力を溜め、エネルギーを得ることができると思っています。しかし、よく考えて見れば、日曜日にしっかり休みを取るからと言って、必ず力を溜め、エネルギーを得ることができるとは限りません。なぜなら、エネルギーや活力、健康や意思は人間の作るものではなく、全ては恵みの源である神から与えられるものだからです。
「休日」とは英語で、「Holiday」と表します。「Holy-Day」それは「聖なる日」なのです。キリスト教はイエス・キリストが復活した日曜日を「聖なる日」としてミサを捧げます。また、「休暇」とは英語で、「Vacation」と表します。この「Vacation」の動詞は、「Vacate」と言い、それは「空にする」という意味です。つまり、休暇の楽しみ「Recreation」は「Re-Create(再び創造する)」となります。本来、休息とは、心を空にして、新しく創造される聖なる日なのです。
教会は、ミサや交わりを通して、疲れきった心を空にして神様の霊を吸い込み新しく創造される場なのです。きょうの福音(マタイ171-9)によると、日々の宣教活動のため疲れ切っているペトロたちを見たイエスは、すぐに高いタボル山に連れて行かれたのです。この聖なる山で主イエスはペトロたちに神の栄光を表し、生きるエネルギーを授けてくださったのです。喜びに満たされたペトロはイエスに、「主よ、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。」と告白しました。このペトロの信仰告白を別の言葉で表現すれば、「主よ、この聖なる場所に連れて来てくださったことを感謝します。この場所であなたの栄光を体験し、疲れきった心に満ち溢れる恵みを授けてくださったことを感謝致します。本当に、今まであなたに従って来たこの人生は無駄ではありません。」と言えるでしょう。
教会はある意味で現代のタボル山です。私たちはイエス様に招かれ、特別に選ばれて、教会まで連れてきていただいた者です。教会で、主イエスは、私たちに神の栄光を示し、ご聖体を通してエネルギーを授けて下さるのです。是非、きょうのペトロの信仰告白をいつも自分のことばとして、主の前で「主よ、この素晴らしい場所に連れて来てくださったことを、感謝致します。この場であなたと出会って、本当に幸せです。ミサに与ることによって、あなたの栄光を体験し、ご聖体を頂くことによって、エネルギーを得て、生きる希望に満たされました。どうぞ、主よ、いつもこの場所に連れて来てください。」アーメン。