メッセージ - C年 復活節

福音朗読(ヨハネ20:19-31)では、イエスが同じ言葉を用いて繰り返し語りかけます。「あなたがたに平和があるように」

自分たちの師が十字架にかけられて殺された、弟子たちはその悲しみに暮れながら、同時に自分たちの命も危ないのではないかと恐れていました。これからどうなるのかわからない、不安におののきながら、みんなで集まって、家に鍵をかけてとじこもっていました。しかし、そこにイエスが来られると、彼らの恐れは喜びに変わりました。

このときトマスは不在で、他の弟子たちが「主を見た」というのを信じませんでしたが、一週間後、信じられなかったトマスは、信じる者へと変えられ、「わたしの主、わたしの神よ」という心からの信仰宣言を発しました。

イエスの「あなたがたに平和があるように」という言葉は、弟子たちの恐れを喜びに、不信を信仰に変える力強い言葉でしたが、その「平和」とは、家の中に閉じこもって平穏無事に過ごせる、ということではありませんでした。第一朗読(使徒言行録5:12-16)に見られるように、弟子たちは、皆、外へ出て行き、すべての人に喜びを告げ知らせました。あれほど恐れていたのに、命をかけてまで宣教するために世界中へと出かけていきました。

ミサの中で、司祭は「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」とキリストの言葉を唱え、会衆は「平和のあいさつ」を交わしますが、その平和は、聖堂の中だけ、ミサの間だけの平和ではありません。その平和は、私たち一人ひとりが家庭に持ち帰り、学校や職場に持って行き、毎日の生活の中で人々と分かち合う平和です。

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メッセージ - C年 復活節

今日のルカ福音書(24:1-12)もそうですが、どの福音書の復活物語でも、その始めにいわゆる「空の墓」の伝承が語られます。イエスの死後、三日目の朝早くに婦人たちが墓を訪れると、そこに納められたはずのイエスの遺体が見当たらず、墓は空になっていました。「復活」というけれども、イエス自身は登場しません。そういう意味で、これは現代の私たちにとっての復活物語でもあります。なぜなら、今、ここに生きている私たちの目の前にも、復活したキリストは現れないからです。

墓を訪れた婦人たちに現れた、輝く衣を着た二人の人が語った言葉は衝撃的です。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。あの方は生きておられる。そしてこんなところにはいない、と言うのです。もし福音書の復活物語が、私たち自身の「いま」に重なるのだとしたら、この問いかけの言葉は、私たちに対してこのように語りかけるものです。「あなたが捜している方は、生きていますか?今でもなお、あなたに希望を与え、力づけ、命を与える存在ですか?それとも、もはや過去の人、聖書のお話の中で描き尽くされてしまった登場人物で、今更あなたに何の影響も及ぼさないでしょうか?」。

墓から帰った婦人たちの話を聞いたペトロは、その場から立ち上がって、墓まで走って行きました。「復活」のメッセージは、イエスを裏切ったという自己嫌悪と主と仰ぐ人が殺されてしまったという虚無感に打ちひしがれ、悲しみの底にあったペトロを再び立ち上がらせ、走らせる力となりました。「復活」は、たとえ目に見える形ではなくても、今でも私たちを絶望や悲しみや痛みから立ち上がらせ、前へと歩ませるイエス・キリストのあり方です。

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メッセージ - C年 四旬節

同じ「主の受難」のミサにおいて朗読される、入堂式に読まれる主のエルサレム入城の箇所(ルカ19:28-40)と、福音朗読の受難の箇所(ルカ23:1-49)の両方をくらべると、その二つの内容の、あまりの落差に心を動かされます。

エルサレム入城の時には、ろばに乗ったイエスが進んでいく間、人々が自分の服を道に敷き広げ、弟子の群れが喜び歓声を上げ、声高らかに神を賛美します。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」。

一方、受難において、イエスが訴えの場から民衆の前に引き出されたとき、人々は声を上げて一斉に叫びます。「その男を殺せ。十字架につけろ、十字架につけろ」。民衆がののしり叫び、婦人たちが嘆き悲しむ声を上げている中を、イエスは十字架と共に、ゴルゴタへと歩んで行きます。

どちらの場面でも、イエスは同じように人々の間を静かに進んでいきますが、それを囲む人々は、ほんのわずかの間に手のひらを返し、賛美は罵声に、栄光は屈辱の死に取って代わられます。

ここに描かれているのは、まさに私たち自身の、都合のいい身の振り方です。私たちは愛を説きながら憎しみによって人を傷つけ、喜びを望みながら悲しみを広めます。希望を持ちながら、絶望に身を委ねます。荒れ狂う嵐のように、私たちは右に行き、左に行き、好き勝手に態度を変えながら、騒がしく叫び続けます。

そんな中で、イエスは、十字架の死に向かう中で、苦しみにさらされながら、自分のことよりも嘆き悲しむ婦人たちの救いに心をかけ、十字架の上で敵意と憎悪に満ちた罵りを受けながら、自分を十字架につけた者たちへのゆるしを願います。

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メッセージ - C年 四旬節

今日の福音朗読箇所(ヨハネ8:1-11)の中で、印象的なのは、姦通で捕らえられた女の人へ向けての、イエスの態度と律法学者やファリサイ派の人々の態度の明確な違いです。寛容と不寛容、ゆるすかゆるさないか、ということがまず最初に目につきますが、結果として何をしたか、ということよりも、そもそもこの女性に対する両者の姿勢が、根本的に違っています。

律法学者やファリサイ派の人々は、自分たちでこの女の人を連れてきましたが、正直、それほどこの人に興味はなかったようです。彼らは、ただイエスを試して、訴える口実を得ようとしただけで、連れてくるのは誰でもよかったし、どんな罪でもよかったし、この女の人がどういう様子でいるか、どんな反応を見せるか、何を考えているか、は関係ありませんでした。石で打ち殺そうとまでしていて命に関わる重大なことなのに、本人に対しては無責任な態度でいて向き合ってはいませんでした。彼らが彼女を連れてきたとき、実際は誰も彼女の顔を見ることさえしていなかったのではないかと思います。

こうして律法学者たちは女の人を石打ちの刑にし、あわよくばイエスをも捕まえて殺そうとしている、そしてそれを取り囲む群衆たちは、この対決の行方がどうなるか見守っている、そんな異常な雰囲気の中で、イエスだけは、この女の人に目を向け、彼女にまっすぐ向き合っていました。だから、女の人に向き合うこともせず死に定めようとしている人々にあてつけるように、同じような態度で、背を向け、彼らに向き合おうとしませんでした。

その後、律法学者たちが論争に敗れ、人々もまるで何もなかったかのように、彼女を残してみんな去ってしまいましたが、イエスだけがただ一人、最後までこの人の罪からのいやしを気にかけていました。律法学者との論争より、彼女の救いのために、真摯に向き合いました。このまっすぐなまなざしは、私たちにも同じように向けられています。

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メッセージ - C年 四旬節

放蕩息子の譬え話は、間違いなく、福音書の中にある宝石のようなものです。全て無くなったとしても、これさえ残れば、神様の本質について、人間の本質について十分に知ることができます。聞き慣れている人にはピンとこない恐れもありますが、改めて読むことによって重要な点に気付かされます。何がこの物語の主なポイントでしょうか。

まず、言うまでもなく神を象徴している父の家に共にいることに幸せがあるということ。それは、父と共にその全てのものに与りながら過ごし、奴隷としてではなく子として共に暮らすことに幸せがある、ということです。また、一人だけではなく、他の兄弟と共に父の元で暮らし、自分のために欲しがる財産と赦しを他の人のためにも求めることに幸せがあるのです。

本当の主人公は、何も惜しまないこの父親だけです。あとの二人の兄弟は対照的に思われがちですが、実は似たもの同士です。それぞれの悪徳は違えども、二人とも罪人であり、父親の豊かな愛を拒んでいます。一人は物理的に父の元から離れて、別のところで空想の幸せを求めていました。それに対し、もう一人は心の中で父から遠ざらり、不満と妬みと恨みの中に生きていました。ある意味で、目に見える形で失敗し、自分の過ちを肌で感じて、挙句の果て回心した息子のほうがまだマシかもしれません。霊的に死んでいることに気づき、父親の愛を改めて受け入れることができ、まるで新しく生まれたかのような経験はありがたいものでした。他方で、自分が正しい人だと思い込み、大きく失敗する機会や勇気もなく、慈しみを必要としなかった息子のほうが、なかなか救われることは難しいのでした。しかし、物語には結果は書いてありませんので、その人をも含めて、いつかは悔い改める希望を皆持っています。

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