メッセージ - C年 年間 |
カトリック教会の典礼暦年間の最後の主日は、「王であるキリスト」を祝います。福音朗読の箇所(ルカ23:35-43)は、イエスが十字架につけられた場面です。そこでは、十字架を囲む兵士たちがイエスのことを「ユダヤ人の王」と呼んでいますけれども、それはもちろん皮肉です。十字架の上で何もできない、自分を救うこともできない、と言って侮辱したわけです。また、一緒に十字架に掛けられていた犯罪人の一人も同じように「お前がメシアなら、自分自身と我々を救ってみろ」とののしりました。彼らにとっての「王」とは、第一朗読(サムエル下5:1-3)に描かれているダビデのように、この世界で強い武力を持ち、戦争の時に人々の前に立って敵と戦ってくれる人物のこと、当時の状況なら、ローマの支配から独立を勝ち取ってくれる民族の救世主でした。それに対して、十字架につけられていたもう一人の犯罪人は、「あなたの御国においでになるときには」、つまり「あなたが王としてご自分の国に入るときには、わたしのことを思い出してください」と言いました。
両者ともイエスのことを「王」だと言いながら、王がどういう者かということについては、別々の考えを抱いていました。兵士たちは、力強く戦う王・敵を力で滅ぼす王のイメージを持ち、イエスのことを皮肉で「王」と呼びながら、十字架から降りてくる力がない、弱々しくて自分自身も他の人も救えない、と侮辱しました。逆に二人目の犯罪人は、イエスは何も悪いことをしていないのに、その必要もないのに、すべての人の救いのために、自分から十字架に上がり、命を献げようとしている。そこに王としての姿を見出しました。
私たちにとっての王は、戦いの中で敵を攻撃して滅ぼす王でしょうか。それとも、人々を愛し、そのためには身をささげるほどの苦しみを受け入れて、人々を救う王でしょうか。私たちにとって、十字架の上のイエスは、弱い、力のない、惨めな人でしょうか。それとも私たちのために命をかけるほど、強い愛を持った方でしょうか。
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主の降誕の準備となる待降節が近づき、典礼暦が終わりに近づくと、ミサの朗読でも終末に関する箇所が読まれるようになります。一年の終わりにあたって、私たち自身の終わり、世の終わりについて考えるためです。
世の終わりというものは、私たちが生きている内には来なさそうですが、この主日の福音朗読(ルカ21:5-19)に描かれている戦争、暴動、地震、飢饉、疫病などという「恐ろしい現象」(21:11)は、今もこの世界で絶え間なく起こっています。被害が及ばないところにいても、そんなニュースを聞く度に心が痛みますが、実際にその渦中にある当事者の方々にとっては、本当に世の終わりのように感じられる悲劇だろうと思います。日本のような、命の危険が少ないところにいても、近しい人による裏切りや人から憎まれる(21:16-17)ということは体験することがあるだろうと思います。
「終末」「世の終わり」は私たちが生きている間には来ないかもしれませんが、残念ながらそれでも様々な痛みや苦しみは絶えることがありません。抱えきれず倒れてしまうほどのつらさもあるでしょう。この聖書箇所のように、イエスご自身も苦しみが存在することを否定していません。けれども、それがすべてではない、それで終わりではない、と語られます。この世界には憎しみも苦しみもあるけれども、同時に愛もあります。弱った人を力づける声があり、傷ついた人に差しのべる手があり、不安なときにそっと寄り添ってくれる存在があります。「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(21:18)という約束は、希望があることを見失いがちな私たちの目を上へと向けさせる言葉です。
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私たちは皆生きている間必ずなんらかの「苦しみ」を背負っています。しかし、その苦しみが「絶望」を生むのか、それとも「希望」を生むのか、両方の可能性があります。その分かれ道はどこにあるのでしょうか。それはその苦しみの「理由、原因」が分かるかどうかというよりは、その苦しみの中に「意味」を見いだせるかどうかということです。ヴィクトール・フランクルが言うように、「絶望とは意味なき苦悩です」。アウシュヴィッツ強制収容所で彼が体験したように、究極の苦しみの中にあって「なぜ、こんなことが自分に起きたのか」とその「理由」は分からなくても、この苦悩には何らかの「意味」があると気づいた時に、人はその苦しみを耐え抜くことができます。
ところで、ペルー人の解放神学者グスタフ・グティエレス(ドミニコ会の司祭)によれば、世の中には二種類の人間がいると言います。一つは、希望を探している人々あるいは希望を見つけようとする人々です。もう一つは、キリスト者です。両者には大きな違いがあります。多くの人は日々一生懸命に希望を探して、見出そうとしています。キリスト者は希望を探しているのではなく、希望を持っています。キリスト者は生きている希望です、歩いている希望です、と解いています。
もしそうであるならば、キリスト者としての使命は正に世界にその希望を伝える、証することではないでしょうか。第一朗読の七人兄弟とその母親のように死を前にしてもその希望を持つことができるのは、その死には意味があるからです。あるいは、第二朗読の使徒パウロの言葉を借りれば、私たちには「永遠の慰め」「確かな希望」を既に見出しているからです。それは「復活」という希望です。まさに福音の言葉にあるように、私たちの「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だからです。キリスト者にとっての確かな希望、永遠の慰めは神が用意してくださる「復活」に他なりません。復活への希望をもって生きているのがキリスト者というものではないでしょうか。
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福音朗読箇所の徴税人の頭ザアカイのお話(ルカ19:1-10)では、人間関係の変化が視覚的に表現されています。
ザアカイはエリコの町にやってきたイエスを一目見たいと思いましたが、背が低かった彼は、群衆にさえぎられて見ることがかないません。背が低いので人々に上から見下ろされることになるでしょうが、それはまるで、支配者であるローマの手先として税金に上乗せして取り立てていた徴税人の元締めである彼が、同胞からは罪人として見下されていた姿を現しているかのようです。単に背が低かったので見えなかったのではなく、意識的に邪魔されていたのかもしれません。
そこでザアカイはいちじく桑の木に登って、物理的に群衆の上の有利な位置を確保してイエスを見ようとしますが、これもローマの威を借りてお金を無理に取り立てるザアカイの、ユダヤ社会における立ち位置を示しているようです。このエピソードの後半でザアカイが語る「だれかから何かだまし取っていたら」という言葉は、実際にザアカイが権力をかさに弱者をしいたげていたことを示唆します。
さて、木の上のザアカイに、イエスは「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけます。ザアカイは降りてきて、喜んでイエスを自分の家に迎え入れます。それまでは、人々から罪人だと上から見下されるか、逆に権力で上からお金をむしり取るか、上下の人間関係しかなかったザアカイですが、木の上から降りて来てイエスと同じ高さの目線で向き合います。ザアカイの家の客となることは、彼の仲間、友人となることです。社会からのけ者にされ、また社会を食い物にしてきたザアカイにとっては、初めての「友人」体験だったでしょう。その結果、彼は、不正な取り立てについて四倍にして返すこと、貧しい人に財産の半分を施すことを誓い、イエス以外の社会の共同体との和解にも開かれていきます。
イエスの「今日、救いがこの家を訪れた」という言葉は、ザアカイが他者との、そして神との本来あるべき関係を取り戻したことを表しているかのようです。