メッセージ - A年 復活節 |
福音朗読の箇所(ヨハネ14:1-12)は、最後の晩餐の席で、イエスが弟子たちに語る場面が読まれます。その中で、イエスは弟子たちに「わたしは父の家に、あなたがたのために場所を用意しに行く」と言います。この弟子たちのための「場所」は、「道」を歩んでたどり着く終わりの時のことを指しているのかもしれませんが、同時に「道」を歩み続けるための力を得る場所でもあります。イエスは、その場所を「父」と自分自身の結びつきと関連づけて語ります。
生きていく上で、誰でも「居場所」を必要としています。安心できて、ありのままの自分でいられる、自分が大切にされている、愛されていると感じられる場所です。そのような居場所があるからこそ、力を得て、勇気を与えられて、そこから一歩踏み出していくことができます。困難な道を歩んでいくことができます。
師であるイエスがいなくなった後、弟子たちが迫害の中でも主の道を歩み続けられたのは、確かな居場所があったからでした。私の居場所はどこにあるでしょうか。私は誰かにとって愛を感じられる居場所となることができているでしょうか。
メッセージ - A年 復活節 |
話し合い論じ合っている二人にイエスが近づいてきたときには、一緒に並んで歩いているのに目が遮られていて、それが誰だかわからなかった。けれども、心が燃えてきた彼らがイエスを引き留め、共にした食事の席でパンが裂かれたときに、二人の目が開け、イエスだとわかったが、その時にはイエスの姿が見えなくなってしまう。目の前にいるときにはイエスだと感じられず、イエスだとわかったら見えなくなる、見えているときは目が遮られていて、目が開かれると見えない、という皮肉な出来事でした。エマオへ向かう弟子たちと復活したイエスとの出会いの有名な物語(ルカ24:13-35)です。
私たちの目の前にあることは事実ですが、見えていることだけが真実なのではありません。私たちの心を燃やすのは、往々にして目には見えないものです。
メッセージ - A年 復活節 |
弟子たちは家の戸に鍵をかけて中にこもっていた。この福音朗読箇所(ヨハネ20:19-31)の場面では、復活の日とそれから8日目の2回、その様子が描かれていますが、師であるイエス様を亡くした後の弟子たちのことを考えると、「鍵がかけられて閉じられた家」という状態は、弟子たちがおかれた閉塞感を表しているように感じられます。自分たちに救いをもたらしてくださると慕っていた主が、捕らえられて、罪に定められて、十字架の上で残酷に惨めな姿をさらされて殺された。彼に付き従っていた自分たちも、いつ同じような目に遭わされるかわからない、これからどうしたらいいのか、不安と恐れに悩まされながら、暗く狭い家の中で震えている様子が目に浮かぶようです。
けれども、そこにイエス様が現れて、雰囲気が一変します。鍵がかかっていたのに、やってきて、真ん中に立たれて、「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちは「ユダヤ人を恐れて」閉じこもっていたのに、「主を見て喜んだ」と言われています。恐れが喜びに変わりました。ユダヤ人たちに捕まる危険性がなくなったわけではありません。けれども、それにもかかわらず、彼らは喜びを得ました。
ご復活は喜びです。私たちは、「ご復活おめでとうございます」と言います。この世界に生きている私たちにとっての、その喜びは、恐れや、不安や、悲しみや悩みがなくなることではなくて、恐れや不安や悲しみや悩みがあっても、私たちは孤独にうち捨てられることはないということです。その中で、立ち上がり、立ち向かう勇気が与えられるということです。
恐れの中で喜びを得た弟子たちは、閉じこもっていた家から外に出て、全世界に行って、福音を告げ知らせました。私たちは、どんな力をいただいているでしょうか。今、どんな力をいただきたいと願うでしょうか。
メッセージ - A年 四旬節 |
今日の福音朗読の箇所(ヨハネ11:1-45)は、一部省略されて朗読されることもありますが(11:3-7、17、20-27、33b-45)、それでも十分に長いお話です。それだけ、このラザロに関する奇跡物語に重きが置かれているということです。これは単なる一回限りのいやし、よみがえりの話ではありません。その背後には、イエスとマルタ、マリア、ラザロの兄弟たちが以前から築き上げてきた友情があります。その深い人間関係があるからこそ、これほど長い話として描かれているのです。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(11:5)と言われているとおりです。そのため、彼らの親しさを裏付けるように、ラザロの死に直面したイエスの「憤り」「興奮」という言葉で表現される感情がたびたびあらわにされています(11:33、38)。
イエスはマルタ、マリア、ラザロと共に喜び、共に楽しみ、良い時を過ごして良い関係を築いてきたからこそ、ラザロが死んでしまったときに、憤りを感じるほど心を動かされました。私たちも、四旬節にキリストの十字架の苦しみに与る上で、まずイエスと、神と良い関係を築くことが大切です。まず日々の生活の中で、喜びや感謝がなければ、自分の十字架を担ってイエスについて行くことはできません。
四旬節には犠牲や節制が勧められ、イエス・キリストの受難や十字架が強調されますが、苦しみそのものが目的なのではありません。苦しみがあっても、そこに私たちは愛を見出し、喜びをも忘れずに歩んでいきます。そして、イエスの十字架の道は、復活へと続いています。
メッセージ - A年 待降節 |
今日の福音の中では、イエスが通っておられた時に生まれつき目の見えない人に会って、目をお癒しになったと書かれています。目が癒された人は物乞いをしていて、他の人によく知られていた人であったので、突然の癒しは公然の話題となります。さらに、「わたしがそうなのです。」と言い「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」と明かします。 聖書の福音書に記されている人の癒しは、体の癒しだけではなく、心の癒しもあります。それは、信仰による新たな生活を始めることによって、完全な癒しとなります。完全な癒しを受けた盲人は、「あなたは人の子を信じますか」と、キリストが問われた言葉に「主よ、信じます」と答え、キリストの前にひざまずきます。 四旬節は私たちの病の癒しの時期です。自分の心の目を開き、キリストがお示しになった救いの道を見分ける事ができるようにと祈る時間なのです。四旬節の始まりには頭に灰をかけていただき「悔い改めて、福音を信じなさい」と呼ばれました。四週間が経った今日、聖書の言葉に示された信仰の道はどれぐらい進んだでしょうか。回心のための信仰の道は、断食と祈り、聖書の言葉、慈善の業の実行によって進める道です。神様の恵みのチャンスを無駄にしたことはありませんか。そして、第二朗読の中に書かれた使徒パウロの言葉によると、暗闇から光へ進む道なのです。また、キリストが盲人の目につけた土を「行って、洗いなさい」とはどのような意味でしょうか。それは、私たちの暗闇の原因となる罪に気づかせていただき、赦しの秘蹟を受け、信仰の光に照らされる新たな人生のスタートを目指すという意味ではないでしょうか。 それでは、耳の中に響いている神の御言葉を心の中にも響かせていただき、癒された人生になるように祈り求めましょう。