メッセージ - A年 年間 |
人間関係において、最も難しいことの一つは、「人を赦すこと」です。自分と相手との間に、何かトラブルや問題が起こった時、「ごめんなさい」とか、「すみません」という一言だけでも、なかなか言えない時があります。あるいは、言えるようになるまでに、時間がかかる時もあります。
このような状況において、キリスト者である私たちはどう対処するべきでしょうか? 聖書によると、赦すべきだということです。エペソ4:32の手紙にはこう書いてあります。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなた方を赦してくださったように、互いに赦しあいなさい。」主イエスご自身も聖書の中で何度も何度も、「互いに愛し合いなさい」と言っていました。愛し合うためのカギは「赦し」だと思います。要するに、「愛し合うこと」とは「赦し合うこと」です。そして、「赦し合うことは最高の愛の表現だ」と言っても過言ではないでしょう。
きょうの福音の前半を読んでみると、主イエスは、「兄弟を赦す方法」に関して、4つのステップを教えてくださいました(15~17節)。ここで注目したいことは、一つ目の段階です。主イエスは、「兄弟があなたに対して、罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」と言っています。まず、「一対一で、二人だけのところで忠告する」ということです。ここで、強調したいことは、主イエスは、どちらが正しく、どちらが間違っているかにはあまり関心を持っておられないのです。大切なのは、「一対一で、心を開いて、互いに認め合い、赦し合う」ということです。「裁きの気持ち」で対応するのではなく、「愛を持って立ち向かうこと」が大事です。しかも、目の前にいる相手を「敵」として見るのではなく、「友」として見ることが赦しの最高の方法です。
イエスは、十字架上に付けられた時、自分を殺そうとしている人々に向って、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているか、自分たちでもわからない」と祈られました。ここで、主イエスがその兵士たちの行為を「認める」とか、「水に流す」とか、「なかったようにした」という意味ではありません。主イエスは、相手の事を「敵」として見ているのではなく、「友」として見ているのです。ですから、目の前にいる「友」が罪の暗闇の中に落ちてしまわないように、皆一人ひとりの心や魂を磨くため、赦しと救いの恵みを願っておられたのです。
きょうの第二朗読ではパウロは「互いに愛し合うことは律法を全うするものだ」と言っていました。「赦し合うことは最高の愛の表現だ」と言うなら、「互いに赦し合うことはすべての律法や掟を全うすること」になるということです。どうか、私たち自身も複雑な関係の中におかれた時、愛を持って、相手を心から赦すことができますように。 人を赦すことには非常に困難ですが、不可能ではありません。主イエスが、「無条件の赦しと真の愛」をお示しになったのは、「神殿」からではなく、「十字架上」からです。「快適な空間」からではなく、「痛みや苦しみの所」からです。
「赦し...」は「難しい...」だが「美しい...」、
「赦し...」は「辛い...」だが「報い...」がある。
「赦し...」は「苦しい...」だがそこに「救い...」が付いてる。
「愛を持って、互いに赦し合いましょう」。アーメン。
メッセージ - A年 年間 |
今日の福音の中で、イエスが弟子たちに言われた「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」という言葉は、現代を生きる私たち一人ひとりにも向けられているメッセージであると思います。
自分の十字架、というと、想像するのは、生きる上での苦痛や困難、あるいは自分の過去など、人それぞれに思い浮かぶものがあります。そうした、本当は背負いたくないものを背負っていく、その姿勢は人間として褒められるべきであるでしょう。しかしそればかりを私たちの生活の中心としてしまってはなりません。自分にとっての様々な十字架を背負いながらも、自分を捨ててイエスに従うことが求められているのです。
イエスに従う、キリスト者としての生き方にも様々な形がありますが、イエスは私たちに最も大切にすべき掟として「神を愛すること」そして「隣人を自分のように愛すること」という2つのことを教えています。すなわちイエスに従うとは、隣人、自分以外の誰かのために、自分を使うことであると言えます。この事を今日の福音に当てはめて考えれば、自分の十字架を背負いながらもイエスに従う、という生き方は、自分をとりまく様々な事柄がある毎日の中でも、自分ばかりのことだけでなく、他の人のために自分の時間を使う、自分をささげる、その心を忘れずに生きる、ということではないでしょうか。自分にとって忙しい時、悩みがある時など、自分のことだけで頭がいっぱいになる時には、私たちは他人に構う余裕が無くなってしまいがちです。ですが、そんな時にこそ、自分のことだけに囚われるのではなく、どんな小さなことであっても、他の人の助けとなれる努力をしてみる、他人のことを考えてみる、それが今、私たちが生きている中で「自分の十字架を担いつつも、イエスに従う」ということに繋がっていくのではないかと思います。
今日は特にこの事を、弟子たちと同じように、イエスからの私たちへのメッセージであると受け取り、それぞれの生活の中でも、イエスに相応しいと言える生き方を、私たちが歩んでいくことが出来るよう、その助けを願いながら共に祈りましょう。
メッセージ - A年 年間 |
今日の福音の中でイエスは、天の国の鍵をペトロに授ける場面が描かれています。そして「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエスはペトロに言われています。「繋ぐこと」は法律的な用語で禁止、もしくは規制を意味し、また「解くこと」は許可、赦しを意味しています。これはペトロに教会を牧する権威を与えたことを意味し、ペトロの跡継ぎである教皇もこの権威が委ねられています。このようにしてみると、教会は規則に縛られているように見えますが、一方でイエスは人々の救いのために天の国の鍵を与えられています。そのためこの天の国の鍵はペトロの独裁を許すためではなく、人々に救いを与えるため、特に赦しに関する権威も同時に与えられていることも考えなければなりません。
私たちは教会共同体の中に救いと赦しがあること、そして神のもとに一致していることを示さなければなりません。その意味で教会共同体での決まり、共に過ごすことは私たちにとって「枷」ではなく、「救い」と「希望」であると言えます。そのために私たちは様々な決まりを守りながら、聖霊の導きを信じ、教会共同体を支えていく必要があります。
私たちが私たちの間に働く聖霊を信じ、そして私たちの間に共にいてくださるイエスを信じて共に歩むことができるように恵み願いましょう。
メッセージ - A年 年間 |
「主よ、助けてください」という病気の娘を持つ女の切実な願いに対して、イエスは「子供達のパンをとって子犬にやってはいけない」と答えました。イエスが彼女の願いを拒否したのは、彼女がイスラエル人ではなく、カナン人だからです。このようなやり取りを聞くと、イエスは女を差別したと言われても仕方がありません。しかし、イエスは意図的に彼女を差別しようとしたのか。決してそうではありません。
マタイ福音書全体のコンテキストの中でこの話を読むと、そこにはイスラエルから始まる救いが最終的にすべての人に広がっていくというマタイの思想が反映されていることが分かります。マタイ福音書において、アブラハムの子ダビデの子であるイエスが最後に天にあげられる前に弟子達に命じたのは、全世界に行って、すべての人に福音を述べ伝えることです。このようなマタイのコンテキストの中でカナンの女の物語を読むと、そこにはイエスがもたらす救いが「イスラエル」という地域的・限定的な範囲からすべての人に及ぶ普遍的なものとして広がっていくプロセスが分かります。
神はイスラエルの人々だけではなく、すべての人の救いを望んでおられることは第一朗読のイザヤの言葉、及び第二朗朗読のパウロの言葉で明確になっています。パウロは、ユダヤ人と異邦人に及ぶ救いの普遍性は神の憐れみと慈しみによるものであることを強調しています。つまり、すべての人の救いは神の業であり、神がすべての人を救うためにイニシアチブをとっています。パウロは、人の不従順でさえも、人々を救う神の憐れみが示されるためだと語っています。
しかし、神による救いの呼びかけは人の応答を求めています。つまり、人は不従順のままにはいられません。イザヤは神の憐れみの業に対する人々の具体的な行動について語っています。「正義を守り、恵みの業を行う」ことが求められています。神に対する信仰が求められているということです。
その意味で、カナンの女の願いに対するイエスの否定的な返事は結果的に彼女の揺るぎない信仰を示すことになります。イエスは彼女の信仰に感心しました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」。しかし、イエスが彼女の娘が癒されるのは他でもなく、神の憐れみによるものだということは彼女の言葉から明確になっています。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください」。彼女がイエスに示す信仰は、神の憐れみに対する応答に他なりません。
私たちも皆、神の憐れみによって「今」ここで生きています。信頼を持って全てを委ねるカナンの女のような揺るぎない信仰で応えることが出来ますように。
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今日の福音朗読(マタイ14:22-33)は、イエスが湖の上を歩く、という奇跡の箇所です。イエスは弟子たちだけを舟に乗せ、ガリラヤ湖の向こう岸に先に行かせました。ところが舟は嵐に遭い、弟子たちは波に悩まされ。そこに湖の上を歩いてイエスが近づくと、彼らは「幽霊だ」と恐怖のあまり叫び声をあげました。しかし、イエスが「安心しなさい。わたしだ」と呼びかけ、舟に乗り込むと風が静まった、という話です。
この話の途中には、ペトロが自分も水の上を歩いて湖上のイエスに近づかせてほしい、と望むエピソードが挿入されています。ペトロは水の上を歩くことができましたが、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけます。イエスはペトロに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言いました。
実際にこれらのことがすべて文字通りに起こったかどうかはともかく、弟子たちが困難や恐れをどう乗り越えるかが描かれたお話です。湖で波風におそわれたとき、弟子たちが頼るべきは、嵐に翻弄される舟ではなくて、嵐の湖にまったく影響されていないイエスでした。初めは目の前にいるイエスのことがわからずに恐怖が積み重なっていきましたが、イエスを舟に迎え入れると風が静まりました。イエスへの信頼よりも強風への恐れが強くなったときにペトロが沈み始めた、というのも印象的です。
私たちも日々生きていく中で波風に打たれ、嵐に襲われるとき、恐れや不安が生じるのは当然です。うまくいかない、もうだめかもしれない、そう感じることもあります。けれども、その波に飲み込まれないようにするためには、その困難や不安を生み出している世の中の「あたりまえ」を越えたところに私たちの信頼を置くしかありません。私にとって、イエスはそれに足る方でしょうか。この世界の価値観をこえた大切な真理があると信じ切ることができているでしょうか。