メッセージ - A年 年間

今日の福音は山上の垂訓での一部が読まれています。この中でイエスは「あなたがたは地の塩、世の光である」と教えています。この「地の塩」「世の光」という言葉が、私たちの才能と主への献身をもって、社会の手本、規範となるような人となることを示しています。そのためイエスはそれぞれが持っているものを主にささげることによって、その規範を人々に示すように招かれています。だからこそイエスは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と教えられています。

しかし私たちが神に何を捧げようかと考えた時、それぞれ捧げるものとして才能や財産を考えると思います。一方でいつも私が考えるのは、私自身捧げるようなものは持っていないということです。その時に考えなければならないのは、私たちが持っている光はイエスから来ているということです。イエスは自らを捧げ、死からの復活という過越しの神秘を通して私たちに希望を示されましたが、私たち自身もその光を照らさなければなりません。すなわち私たちが自らの光を通して、イエスの示してくださった光を人々に現します。だからこそ私たちは困難のなかにある時も主に従うことを通して、その困難を乗り越える恵み、過越しの神秘に与る希望が与えられていることを示すように招かれています。その意味で私たちは、困難の中にあっても、いつも喜び、その喜びを分かち合わなければなりません。それが私たちにとっての捧げであり、「光を人々の前に輝かせる」ことだと言えます。

私たちが困難の中にあっても、主に自らを捧げ、従うことができる恵みを願いましょう。

 
メッセージ - A年 年間

マタイ福音書では、大人になったイエスは、まず洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で誘惑の試練を受けた後、ガリラヤで宣教を始めます。それがこの主日の福音朗読箇所(マタイ4:12-23)のお話です。

イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って福音を宣べ伝え始めたとされますが、この宣教活動の始まりにおいてしたことは「弟子集め」でした。最初に弟子になったのは、ガリラヤ湖で漁師をしていた2組の兄弟、シモン・ペトロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネでした。その後も、たとえば徴税人のマタイ(9:9)など、様々な人々が弟子として加わり、そのうちの12人が特別な使命と共に使徒とされました(10:1-4)。

イエスの宣教活動は、個人的な活動ではありませんでした。弟子たちを仲間として、いつも共に行動し、その実りを分かち合いました。そしてイエスの死と復活の後、福音を宣べ伝えるという使命は、イエスから弟子たちへ、更に次の世代へと引き継がれていきました。

イエスの宣教が、イザヤの預言のことば(イザヤ9:1)になぞらえて語られます。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。弟子たちはその光をもたらす使命を受け継ぎました。現代のイエスの弟子になろうとする人も、この使命を分かち合うことに呼ばれています。

 
メッセージ - A年 年間

福音朗読箇所(ヨハネ1:29-34)では、イエスの公生活の始まりに先立ち、洗礼者ヨハネがイエスについてあかしする場面が読まれます。ヨハネに対して「メシアではないのか」「エリヤかあの預言者ではないのか」と言う人々がいましたが、ヨハネは「自分の後から来られる方こそ、その人物だ」と語り、イエスが自分の方へ来られるのを見て、「この方こそ神の子だ」と示しました。

「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返しながらもヨハネがこのあかしをしたのは、霊が降ってきてイエスにとどまる、という「しるし」を見たからでした。

この世界で私たちに与えられるのも、いわば「しるし」だけです。神の子の姿を目にすることも、神の声を聞くこともありません。私たちは、聖書のみ言葉を通して、目の前で起こる出来事を通して、人々の愛ある行いを通して、そこに神の業を、神の御旨を「感じ取る」ことしかできません。

私たちは、今、何を見て、どこに主の存在を感じるでしょうか。

 
メッセージ - A年 降誕節

今日、主の公現の祭日に読まれる福音では、東方の三博士がイエスのもとを訪れる場面が描かれています。三博士たちは星の導きによって、イエスを探し出し、それぞれが黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げます。この贈り物は非常に貴重なものであり、それを贈ることによって、イエスに対する敬意を示します。また三博士たちは、福音の序盤でヘロデ王にユダヤの王を「拝みに来た」ことを伝えており、実際に「ひれ伏して幼子を拝んだ」ことが福音書では描かれています。また夢でのお告げに従って、ヘロデ王のところを帰らず、そのお告げを素直に受け入れ、自分たちの国に帰って行ったと書かれており、政治的な陰謀に与せず、単純に敬意を示すために幼子イエスのもとを訪れたことが描かれています。その後、福音ではこの三博士は出てきていないことからも、この三博士の示した敬意、そして贈り物は裏のない純粋なものであったことが分かります。

さて、わたしたちが生きている社会では、働きに応じた報酬があることが当然です。それはわたしたちが生きるために必要なものでもあります。しかしわたしたちが、イエスに対しての捧げを行おうとするとき、三博士のように対価を求めない、純粋な意味での捧げが必要になります。それはイエスがわたしたちのために無償の愛を示してくださったように、わたしたちも自らの信仰生活をと、その愛に応えるためでもあります。だからこそわたしたちは、人々の間にイエスを見た時、そのイエスに純粋な捧げをすることができるかどうかが大切になってくるのだと言えます。それが、わたしたちがイエスに贈るべき捧げだとイエスのではないでしょうか。

 
メッセージ - A年 降誕節

皆様の今年一年の目標は何ですか。きっとそれぞれには目標があります。今年をどのような一年にしたいのか。それぞれに夢と希望があるでしょう。今年こそ自分の健康を大事する。ダイエットをして体重を落とす。もう少し食べて、力をつける。まじめに仕事に取り組んで、自分のキャリアーを積んでいく。今年こそ家族のことを大事する。果たせなかった約束を果たす。教会の中、社会の中でもっと貢献する、など。

いずれにしても、今年も私たちはそれぞれの人生の旅の歩みを続けます。人生の旅は、最終的な目標に向かっていきます。キリスト者として、その目標とは「神ご自身」です。聖アウグスティヌスの有名な言葉があります。「私の魂はあなたの内にたどり着くまで、安らぎを覚えない」。そうです。私たちの人生の旅は「神」に向かっています。そこにたどり着くまでは安らぎを覚えない。私たちの中に神はご自身を渇き求めるエネルギー(力、欲とも言える神へのあこがれ)を備えています。それは、モノや財産(富)や名誉があっても決して満足できない神への渇きです。

今日の福音朗読には、羊飼いたちが天使たちの言葉に従って、幼子イエスを探し当てたという話が出てきます。クリスマスは、イエスを探す人々の物語(ストーリー)でもあります。羊飼いたち、三人の博士、ヘロデ大王もイエスを探しました。幼子イエスを探す羊飼いたちの姿は、まさに神を探し求める私たち人間の姿です。幼子イエスを探す三人の博士の姿は、神を探し求める私たちの姿です。神の内にたどり着くまで安らぎを覚えない私たち人間の姿です。

しかし、羊飼いたちや博士たちが見つけた幼子は神ご自身に他なりません。彼らが見つけたのは、実は、人間(私たち)を探し求める神ご自身です。羊飼いたちが飼い葉桶の中に見つけたのは「迷う羊」を探し求める「よい羊飼い」ご自身です。私たちが神を探し求める前に、神はすでに私たちを探し続けてきたのです。私たちが神を探し求めるのは、神が先に私たちを探してきた「反応、応答、答え」なのです。私たちが神に向かって、「あなたの内にたどり着くまで安らぎを覚えない」と言う前に、実は神の方が、私たちを見つけるまで「神は安らぎを覚えない」。なんと勿体いない、何とありがたいことか。クリスマス、受肉の神秘、神が人間となったことは、私たちを見つけるために神がとったもっとも大胆な行動です;私たちを救うために。私たちが信じる神は、何となくいる神ではなく、私たちと同じように生身の人間となったということです。

一方、幼子が寝ている飼い葉桶の傍らにマリア様の姿があります。佇んで祈るマリア様の姿と言えるでしょう。偉大な神の御計画を、迷いながらも、祈りをもって答える聖母マリアの姿があります。一つひとつの出来事、人生の不条理、疑問に対してすぐに答えを求めようとせずに、すべてを心に留め、思いめぐらしたマリア様の姿があります。「祈っているマリアの姿」があります。神の子を自分の胎内に宿って、この世に産んだマリア様がいます。神の内に安らぎを見つけた人の姿です。キリスト者である私たちの模範ではないでしょうか。